のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

カウンセリングの失敗と限界

 先日、カウンセリングをした。クライエントは、学生ではなく、社会人の方で、とある大企業にお勤めの女性が、出産後の働き方について相談したいとのことだった。
 このカウンセリングが、まあ率直に言えば、完璧なる「失敗」だった。全くカウンセリングは、役立たなかったとの評価を下されたのだ。結構、ショックだった。

 考えてみればこの結末に至る道のりは、クライエントが部屋に入ってきた瞬間から始まっていたように思う。彼女の顔を見た瞬間に、私は、「うっ!」とたじろいでしまったのだ。
 彼女の顔に、何かがついていたとか、そういったことではない。むしろ、目に見える何かが付いていたほうがよかったかもしれない。そうすれば、それを本人に伝えられたから。実際は、彼女の顔には何も変わったところはなかった。ただ、まるで何かに怒っているような、とても不機嫌そうな表情をしていたのだ。

 多くの場合、初対面の方と会うとき、クライエントは緊張していたり、不安そうに見える、ということは少なくないものだ。何かしら相談事を抱えているわけなのだから、ある種の「怯え」を抱えていることだってある。また、問題がそんなに深刻ではない場合や、その人自身が社交的な人の場合などは、クライエントが笑顔で入ってくるのも不思議ではない。ただ、いきなり「怒った」顔で対面するという例を、私はあまり見たことがない。

 そんなわけで、その人の「怒った」顔を見たとたん、私はビビった。「怒り」は苦手なのだ。しかも、私が必死に愛想を振りまきながら、笑顔で挨拶をしようが、休日に来てくれたことをねぎらおうが、ピクリともその表情は動かなかった。
 焦りと不安が自分を委縮させていくのを察知した私は、これはいかん、と思い平静さを取り戻そうとした。しかし、平静さを持つには、自分の中の不安や恐怖(相手の怒りに対する)から自分を引きはがさなければならない。そのために一番手っ取り早い方法は、恐怖の原因、つまり相手の怒りを直視しないことだ。
 感覚を鈍麻させ、相手の話に合わせ、表面的には話がはずむように会話をするうちに、次第に相手の表情も少しずつ和らいできたようだった。

 けれど、怪獣のレーザー光線の攻撃を楯で防御でもするように鎧をつけていたとしたら、いったい、どんなふうにクライエントの感情に触れ、そこに近づけるというのだろうか。それでなくても、自分でも気づかないぐらいに感情をため込み、しかも「怒りのオーラ」として隠しようもなく周囲に発散してしまっているクライエントなのに。
 
 かくしてクライエントは、自分が置かれた状況を、保守的な一流企業にあっては当たり前の勤務形態、キャリア形成の制約だと認識し、その上で既定路線のように自分のことを話していった。私は、表面的に話を合わせ、表面的に相槌を打った。
 クライエントは何も不足そうでも不満そうでもなかった。評価もされ、今の職場でもやれるだけのことをやっており、社会的ステイタスも保障されている。そこで自分が不足に思うことはほとんどないし、むしろ、そこで決められた規則に則り、求められるスキルを身に着け、能力を発揮すること自らの第一義的な行動の規範として、これまでやってきたのだ。その一企業の確立された組織に自らを染め上げることで、自分の高い評価を築き上げてきたのだから。
 ただ、これから先も同じようには働けない。何かを取れば、何かは捨てるしかない。だってそういうものだから仕方ない。

 彼女は、私の質問に、全て自分ですでに考えたとおりの答えで返してきた。そのほとんどが、既存の価値基準と一般常識によって構成されていたけれど、きっとそのことに彼女は気づいていない。
 人生のほとんどを組織に漬からず、フリーに生きてきた私にとって、そうした「社会通念」は、あるテリトリーの中でだけ通じる、限定的な条件付けでしかないように見えた。一歩そこから外に出れば、いくらでももっと自分を自由に、そして何より、そんな怒った顔をしなくて済むようなハッピーな空気を吸う方法もあるんだと、思うんだけどな、と考えながら。でも、彼女の物の言い方にはあまりに取りつくしまがなくて、無力化された私は、ただ話を合わせるしかなかった。

 実際は、客観的事実としての「こういうもの」論のわずかな隙間に、彼女自身の意思として語られた表明もほんの少しはあった。けれどそれは、まるで骨格を持たない軟体動物のように茫漠とし、そのときどきで姿を変える、小さな刺激にも押しつぶされそうなか弱い存在だった。
 私は、その、光の角度が変わるたびに姿を変えるホログラムのようにうっすらと見え隠れする軟体動物を、どうしたら彼女の中から救ってあげられたのかと、すべてが終わった後になって考え続けた。

 出産と育児は、女性の体を内側から変え、それまでの仕事への燃え滾るような熱意や意欲をかき消してしまうらしい。まだ乳幼児の我が子を残していきたくないという本能的な衝動は、それまで生き生きと闊歩していたはずの「仕事への意欲」を内側から突き崩して骨抜きにするのだろうか。そういう、体内の溶解剤、しごと願望アメーバ化ホルモン(?)みたいなものを私自身が経験していないために、それにどう対抗するか、いや、そもそも対抗すべきものなのかどうかもすら、分からない。ただ、その影響力はあまりに強く、そして、社会的な支援は何もない。母になって子どもと一緒にいたい、と思うのは当然だろう。ただ、その間働けないからには、第一線から降りるしかないよね。だって母になるってそういうことだから。

 だとしたら、そういう母ホルモンが充満しているときには、うつ病になった時と同じように、将来の大きな判断をするべきではないのではないか。将来、子どもが手を離れるころには、また別の思いがムクムクと湧き上がってくるのだから。いま、このときに、先のことまで決めようっていうのが無理な話ではないかと思い、私自身が、決断や選択をだそうとはしていなかった。
 そりゃー、答えを出せるカウンセリングにはならないわけだ。

 そんなわけでとにかく、私にはいろいろと難しかった。大企業において、女性はよりがんじがらめになるのか、そんなことも感じたし。

 なにより、自分の「人間力」の小ささを痛感したケースだった。
 「人間力」なんて、意味不明の気分先行のイメージ本位な言葉を、私は軽蔑している。にもかかわらず、今日これを使ったのには、わけがある。じつは航空業界で働く人がパイロットの適性をどう評価するかという話の中で使われたのだ。パイロットの選考では、今や珍しくなった「圧迫面接」があり、これが「人間力」を試す場となるらしい。
 まぁその名称はさておくとして、高い攻撃性や怒り、その他もろもろの非常事態ともいえる感情や状況に直面して、どう自分を冷静にコントロールできるかは、確かにパイロットには高い基準で求められる資質だろう。それに比べて、私はなんと気の弱い、器の小さいことよと、改めて実感した次第。

 そんなことを突きつけられた、秋の一日。