のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

失われゆくもの、つながり

 とつぜんだが、私は農学部の出身である。農学と言っても実は分野が広く、なかでも生物環境というのが細分化された、生物が生きる環境の制御をする、という分野がある。温室の制御をする、というと分かり易いかもしれない。そんなわけで、植物工場、というのは私の古巣の一部なのだ。
 
 従って、こういう記事には、つい目を止めてしまう。
[http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/252376/032900138/?P=4&mds:title=植物工場で地殻変動「レタス日量25万株の衝撃」
バイテックが進める「静かな革命」]

 大筋としては、バイテックという会社が、2年間で怒涛の勢いで植物工場を複数個所に設営し、さらに今後それを上回るスピードで生産量を拡大し、業務用レタス供給の少なくないシェアを獲得しようとしている、ということになる。
 植物工場は、温室の流れを組んでいるので、実はその研究の歴史はとてもながい。
 長くはあるが、外部の天候に全く影響を受けない人工的な栽培方法は、高コストなどの問題で簡単には「農業」の主要な一形態にはなれていなかった。その状況を大きく一変しようとしている。
 農業には、これまで、「自然や土との対話」と言った言葉に代表される、ある種のこだわりがついて回っていた。それは、従来の生産者にも研究者にも共通してそうだった。少なくとも従来は。
 人類による農耕という長い歴史を通じて、天候に影響されて栽培量や品質が大きく変動することは、つねに乗り越えるべき課題である一方で、自然が相手ではしかたない、という諦めはみんなの共通認識だった。だから、農業にまつわる苦難は、「ままならない」ものを相手にしている誇りにも通じるし、生き物や自然への畏怖にもつながっていただろう。

 記事では、そうした農家や研究者たちの「土や自然」へのこだわりにも触れている。その自然を重要視する視点も大切だとしながらも、農業の人手不足が深刻化し、食糧不足が切実になる未来を説く。そうした、目の前に迫ってくる課題への対応策として、自動化された植物工場は最も合理的な解なのかもしれない。
 
 それでも、かつての農業研究者のすみっこ暮らしをしていたものとして、企業が、全自動で、つまりは無人の、大規模植物工場を大々的に展開し、食糧生産の一角を担うようになるということは、人と自然との結びつきが、決定的にほどけていく始まりのような気がしてならない。
 だって、私たちの世界への認識は、日々の生活のこまごまとしたことで成り立っている。だから、私たちの食べ物から、太陽や土が切り離されていけば、私たち自身の存在も、太陽や土からどんどん離れていくだろう。地に足をつける、という言葉が示すように、踏みしめる土台を失って、ますます自分たちの存在の拠り所を失ってしまうかもしれないのだ。

 いやまてよ、けれど本当にそうなのか? 
 だって、30年前にすでに、家庭教師で教えていた中学生は、じゃがいもが地中にできることを知らなかったのだ。何をいまさら言っている?
 
 だとしたら、今回のことで、すでに始まっていたものが決定的になるだけかもしれない。考えてみれば、その30年ぐらい前と今を比べると、少なくともこの日本では、人々の心のよりどころもどんどん失われている。日本の小中学生の6割が、自分自身の存在に誇りが持てないというけれど、それだって30年ぐらいから大して変わらないのかもしれない。

 それでもなんとなく、感覚的に思うのは。
 青空の下で、太陽がさんさんと照る中、そこらにみずみずしく育っているキャベツを青虫みたいにむしゃむしゃ食べていたらきっと、「生きてる!」って気持ちがしそうだ。
 けれど、LEDが青白く光る下で、静かに緑色に輝いているレタスをちぎって口に放り込んだとしても、大して味覚は刺激されないだろう。
 私たちは、そういう味気なさに目をつぶって、少しずつ、人工化、資本主義化を推し進めてきた。
 その日々の蓄積が、私たちの何をどう変えてきただろう。
 それに一旦ならされてしまったら、失われたものを取り戻すために舵を切るのは、さぞかし難しくなることだろう。