のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

原理原則

 最近、色んな事件が起きる。
 どんどん、起きる。
 あまりに、つぎつぎに起きる、ので、ひとつひとつを丁寧に考えている暇がない。

 そんななか、件のセクハラ次官が辞任をした。「そんな覚えはありません!」とシラを切って済まされずに良かったと思う。
 辞任だと、退職金も出るんですよね、と指摘した人がいたけれど、まぁ、そのくらいはいいと、私は個人的に思う。次官まで上り詰めるのは、やはり頭がよく優秀な人が、人一倍、努力して働いてきたのだろうから。

 ただ、公文書改竄の罪は問われないのに、なんでセクハラならこうすぐ辞任に結びつくのか、それでいいのか?と問う人もいる。その意見には、確かに一理あるように思う。

 日本においては、以前にも、沖縄返還に関連して日本政府とアメリカ政府の密約をスクープした西山事件というのがあった。日本政府が、密約はないとシラを切り続けて、裁判所もそれに加担し続けた。
 その際、最初は政府が国民に知らせずに、米国への資金供与をしようとしたことに、国民は大きな批判をしていたはずだったのだが、外務省職員と毎日新聞記者の不倫関係(とそれを利用した情報取得手法)のほうに非難が移って、外務省の情報隠ぺいや密約のことはすっかりうやむやにされてしまったわけだった。

 で、何が言いたいかというと、また同じことが繰り返されるらしい、という話。
 日本人が、いかに「人情話」的な、感情と気分に流されやすいか、問題点は何か、ということにどうも意識が行きづらいらしい。(私自身も含めて)

 今回のセクハラ記事への外務省の対応は、根本的に、「あのくらいの発言で、いちいち目くじら立てるなよ」という、まぁ配慮のない旧態依然とした感覚が基盤にあるとおもう。 
 つまりは、昔ながらのおっさんたちの感覚。
 で、今は、それはもうやめましょう!と、女性活躍、とかいうんだったらなおのこと、私たちの意識を変えなきゃいけませんよ!と、言いたいのだろうと思う。
 告発した女性記者は、本来、ただ嫌な思いを晴らしたいという感情的な部分だけではなく、そういう日本のジェンダー指数がどんどん下がっても何も変えられないでいる社会を、どうにかしようよ、変えようよ、とも言いたかったんだろうと思う。

 しかし、どっちかというと、感情的な部分の方に人々はより反応したような気がする。つまり、虐げられて、声が上げられない人への共感だったり、同情だったり。
 だから、不倫とかセクハラとかには人々は怒りを示しやすい、けど、公文書改竄に、さほど怒りは感じないらしい。

 公文書改竄には、追い詰められたサラリーマンが、上司命令に抵抗はできないという背景があった。どこまで上の上司だったか、本とは焦点なのだろうけど、そこはさておき、とにかくお上に仕える悲しい性で、品質の不正表示したり、利益水増ししたり、公文書の改竄したり、するのは仕方ないことなのだ。
 原理原則よりも、その場を上手く切り抜けることが実際、重要で、大勢が揺るがなければ(会社がなんとなくうまく回っていれば、経済がなんとなくうまく行っていれば、給料と仕事がなんとか維持できていけば)まぁ多少のことには目をつぶりましょう、と日々生活しているから。

 民主主義の崩壊が進むかもとか、政府が悪事を隠ぺいするかもとか、守られるべき公平、公正な制度の綻びとか、あまり意識はいきづらいものなのだろう。