のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

子供を守る

昨日の使える核、の続きを少し。


ちいさな核(て書くと、ちょっとかわいいものみたいだ)が、
本当にテロリストや「ならず者国家」の撲滅に有効だと思っている
人々は、きっと初めから武器や暴力が好きなんだろうと思う。
自分の意に沿わない相手を、強い物理的な力でねじ伏せることに
抗いがたい魅力を感じる、ほとんど生まれもっての、素養があるんじゃ
ないだろうか。


そして、武力が平和を維持できると言う彼らなりの理論や信念は、
その彼らの嗜好の上に構築されている。


好きなものを正当化する、というシンプルな構造。


(ちなみに、小さな核についての研究に熱中する「倫理観の欠如した」
研究者は、武器の生々しい醜悪さとは全く別のところにいる可能性は
大きいですね。
彼らの特質は、純粋な物理学への深くも盲目的な愛情とともに、
無反省な鈍感さにあるのですから。)


さて、こうした好きなもの、大切なものを正当化する構造は、当然ながら
誰にでもあるわけだ。
でも、その根源にある「好き」の対象、おおむね個人的なその対象を
あからさまにされると人は引く。
引かない?
わたしは引くんだけど。
ほんとに引かない?


インターネットは何を言ってもいいらしいので(ほんとーか?)、勇気を
もって言いますが、
子供たちをを守るために、と言って環境問題やら平和やらを
説く母親たちには、不思議と冷ややかな気持ちになるのです。


子供「たち」の未来を考えて、環境をこれ以上破壊しないように!
と言っている母親たちは結局、わたしの可愛い自分の子供を守りたいの、
それって社会の役目でしょ、だから社会で守って頂戴、うちの子を、
って言っている?
と思う気持ちがむくむく。


まぁ、わたしのような風来坊ばっかりだと、行き当たりばったり、
今がよければそれでいいじゃん、な享楽主義者ばっかりで、それこそ
地球壊滅状態もすぐまじか、ということになるやもしれません。


だから、出発点が自分の子供かわいさから始まっていても、その目的が
次世代の地球を守る、という崇高なゴールに向かうものなら、
いーじゃないの、と反発を招きそうです。


ええ。いいんですよ。
こう見えてもごみの分別には自信があるわたし。
他の人を見て、分けろよ、とも思います。
だから、しっかりゴミ捨て場の管理をしている奥様がたはえらいわ、
とも思うのです。


ただね、崇高なゴールを目指す主義主張でも、そこに個人的な理由が
介在すると、とたんに聞く耳が半分ぐらいの大きさになっちゃうのです。
たとえば、
中越地震の被災者に募金を送ろう!」
といわれれば、おお、そうか、送ろう!と同調しそうになりますが、
「だって、あそこには僕のおじいちゃんが住んでるんだよ!それで、
地震から3日たって電話で話したら、寒くてたまらんからお前にむかし
あげたボアの毛布を送り返してほしいっていうんだよね。でもさ、僕今
お金ないし。だから、だからみんなで力をあわせて中越地震の被害者を
助けて、おじいちゃんに毛布あげてよ!」
と言われたら、同情で膨らんだ風船にぷつっと針を刺されてシュルルルルー
っていう感じなると思いませんか?


人と人との心のつながりが希薄になって久しいと言われる現代。
個人的な事情を振りかざされると背を向けたくなる、
という現象はその現れなのかもしれません。


というわけで、自分の子供を守りたいから環境を守れ、などの
個人の事情が透けて見える言い方はやめようよ、というのが
わたしの提言です。
だって、その先にある願いは、万人にとって正当なものなのですから。
叶えたいじゃないですか。


その根源にある事情が個人的なものであればあるほど、
その事情をひた隠しにすることで、人々は振り向いてくれる。
切ない世の中よね。