のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

言葉にできない諸々のもの



こちらは、一昨年、カピバラが見たくて動物園に行った時の写真です。


 小学校の頃、「文通」というものをしていた。相手は、同じ小学生の同級生の女子か、2歳ぐらい上の子もいたような気がする。「子もいた」というのは、文通相手は一人ではなく、3人ぐらいいたからだ。
 当時、私が愛読していた少女漫画雑誌は、欄外に「文通友達募集!」のコーナーがあり、そこに一言メッセージを投稿できるようになっていた。私もそこに投稿し、文通相手を作ったように記憶している。私は、どちらかというと年上の友達を好み、日本国内に3,4人(正確な人数はもう記憶にない)の相手がいた。さらに中学になるとアメリカまでもペンパルの触手を伸ばした。ただし、英語を書くというハードルが高すぎて、アメリカ人とのやりとりは、ほんの数回だったけれど。

 今思えば、日本国内の文通相手には、結構、頻繁に手紙を書いていたものだ。書いた手紙が投函され、相手のもとに着くまでに2日ほど(昔は手紙の配達も今よりゆっくりだった、気がする)、さらにその手紙を読んだ相手が返事を書き、投函してまたこちらに届くまでに2日はかかる。最短でも丸3日は返事を待たなければならない計算だ。
 複数の文通友達がいたのは、待っている間にも、また別の人からも手紙が欲しかったからだと思う。誰かからのお便りを読むのが好きだったのだ。といっても、こちらだってその分頻繁に手紙を書かなければならない。今考えれば、子どもの頃はずいぶんマメだったと思う。


 すっかりマメでないのは、今の私だ。
 時流に乗ってFacebookの登録をしているけれど、自分から記事を書く気はゼロだし、人が書いたものすらあまり読みたいと思わない。かくして、今はすっかり「非社交的な」生活を送っている。


 けれど、こんな人でなしの私にも、先日の誕生日にはおめでとうメッセージが次々と入ってきて、少し慌てた。

 元来がナマケモノでずぼらにできているとしても、人から軽蔑されるようなことがあってはならないと小心者ならではの気負いから、立派な常識人を装いたがる。なので、頂いたメッセージにはレスを返す義務があると思っている。
 それで誕生日の翌日になってから、ノロノロと頂いたメッセージにコメントをポチポチつけて行った。

 そしたら、その私のコメントに対して再度、「書き込みがありました!」とか、Faceboookからお知らせが来るではないか。
 まー、なんとみなさん、ご丁寧なことでしょう。

 感心しつつ、なかば人付き合いの良さにもあきれながら、普段はあまり開けないページを開いて見たら、書き込みをしていた皆さんは全て、「いいね!」をつけてくれていたのであった。

 私は、おお、これがfacebookの流儀なのか!、と了解した。
 世の中であふれている「いいね!」とやらは、こうやってつかわれるのか、と思うと、なんだか感慨深い。

 だってね、いらないでしょ、ふつう。
メッセージ書いて、それにお返事がきたら、それで終わりでいいでしょう?

 でも、何か心の中で、最後にもう一声かけたい気持ちが浮かんくるのだろう。
 対面なら「それじゃね」「うん、またね」「またね」、で、プラス(手を振る)とかができる。でもそれは、文面でわざわざ書くまでは及ばない「気持ち」なのだ。
 そんなときの「つながった」の嬉しさや、名残惜しさ、を伝える機能も「いいね!」にはあったのか。。。

 けれども、●○さんからも、××さんからも、△○さんからも、つぎつぎに
「○○さんがあなたのコメントに、いいね!しました」
と届いているのだ。
 みんなから同じく「いいね!」を届けられると、ちょっと平坦な気持ちで、便利なツールだねー、とつぶやきたくなった。

 たとえば、誰かと駅の改札での別れ際、バイバイとお互い手を振って別の方向に向かう。
 ふと振り返ると、相手もまたこちらを振り返っている。
 それでまた軽く手を振る。
 ようやく安心して、今度は少し足早にそこを離れていくのだ。

 相手から離れても、まだ心の中に彼や彼女の余韻が残っている、その時の気持ちは、上手く言葉では表せないし、正直相手によってもいろいろだろうと思う。

 「いいね!」は、なんだか昔もらった「よくできました」のスタンプを思い起こさせる。ピンク色の、さくらの花のかたちのスタンプを、たくさんもらったようなそんな気はづかしさと、みんなの綿アメみたいなふんわりした優しさに、ちょっと戸惑いを感じた私だった。