のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

ジェフ・ベゾスその2

 映画「聖の青春」を見た。
 これは、29歳で早世した実在の天才棋士村山聖(名は、「さとし」と読みます)を題材にした映画だ。主演の松山ケンイチは、役作りのため20?増量(村山さんは、小太りでまるまるした人だった)して、ものすごい気迫の棋士を演じていた。
 
 村山棋士は、幼少時にネフローゼになり、ずっと体が弱く病院生活を送ってきた。外で遊ぶことができない分、将棋に没頭し、ぐんぐん実力をつけてきたのだ。
 ライバルは、当時、同い年に7冠となった羽生善治。やがては羽生を打ち負かし、名人になるという夢を持ち、一時は互角に戦っていたが、膀胱がんに侵され、手術でやむなく戦線を離脱した。
 その後、医者にとめられながらも早期に復帰を果たし、6局を戦ったが、がんが再発し、短い生涯を閉じる。

 常に死が背後から追いかけてくるなかで、病魔に侵され痛みや吐き気や熱に苛まれながら、研ぎ澄まされた一手一手を繰り出す集中力とは、いったいどれほどのものだろうと思う。
 それはきっと、普通の人間の領域を完全に超えた、尋常ならざるものだ。何かきっと、将棋の鬼、みたいなものが宿っているに違いないのだ。

 タイトル戦の決勝で、村山と羽生が戦って村山が勝った夜に、二人で酒を酌み交わすシーンがある。そこで村山が、
「羽生さんは、どうして将棋をやっているんですか?」と問う。
羽生は、分からない、分からないけれど、今日村山さんに負けて、死にたいほど悔しい、と答える。

 死にたいほど悔しい。それはもう、なんというか、将棋というのが、まぎれもない「死闘」だということなのだろう。

 「闘い」というと、日頃、よくそのフレーズを聴くのが、選挙戦だ。
 将棋の勝ち負けは、個人の知力、体力、精神力、実力、努力等々によって決まる。けれど、選挙戦は、気まぐれな有権者の気分やら、時代の浮ついた流れだとか、さらには無意味な誹謗中傷などによって大きく影響される。
 そんな自分ではどうしようもないことで勝負が決まってしまうなんて、さぞかしうんざりすることなんじゃないかと思う。
 将棋だって、生活の全てを将棋に捧げて研究をし尽し、果てしない努力を続けも勝てないときは勝てない。それでも、負けは自分の実力のせいだし、勝つために自分でやれることがあるのだ。
 であればこそ、自分の実力の限界を突き付けられたとしても、それに真正面から対峙し、純粋な闘志を燃やせるのだ。
 細胞がばらばらになりそうなくらい、悔しい、負けたくないという思いとは、どんな世界なのだろうと、ただ日々のほほんと生きる私は、淡いあこがれを持ちながら、彼の最後を見守ったのだった。