のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

”書く”という営み

 先日、ナラティブ・メディスンのトレーニングとして行われる、ライティング・ブロジェクとなるトレーニングに参加してきた。
 ナラティブ・メディスンとは、社会構成主義から生まれたナラティブ・セラピー、ナラティブ・カウンセリングの一派(と言っていいと思うのだけれど)であり、「物語る」ことを医療に役立てようとするアプローチをいう。
 患者やその家族の物語を物語ることは、その人々への理解を深めたり、ケアをより良質のものにするだけではなく、医者や看護師、カウンセラー、ソーシャルワーカーなど医療従事者と患者、またはその家族との間の溝を埋めることにも役立つ。互いの関係性の構築に働きかけ、個々の医療従事者が陥りやすい孤独から彼らを救う。
 
 しかし、そうしたナラティブのアプローチを実践するには、物語る能力が必要だ、というのを、医師でもあり文学者でもあるリタ・シャロンが提唱している。それが、物語能力を高めるためのナラティブ・トレーニングの始まりである。先のライティング・プロジェクトは、その流れの一環である。

 今回は、その第一回目で「クライエントを描写する」というお題を与えられた。参加者は、自分が書いてきた800文字の文章を読み上げ、それについての感想を述べ合うという流れ。
 その中のひとつに、「桜」がモチーフに使われたものがあった。
 死期が間近に迫った父親の病室に、彼の娘が大量の桜を持ち込んだ。むせかえるような花の息吹きに満ちた病室。そこで語られていたものが、特定のひとりの人間という存在を超えて、大いなる自然とつながるような感覚を私は覚えた。

 文章が読み上げられた後、それについての互いの感想を述べ合うときだった。私は、感じたことを話そうと思った。家族の死への悲しみや喪失感や悔恨、あるいは、医療側が持つ様々に複雑な感情などももちろんだけれど、なによりも、個人個人の心情をすべてを内に含む、大いなる存在である『自然』を感じたと。そしてそれが、私たちの奥深くに浸透し、内側と外側にあまねく広がっていることを実感したと。私たちは、個人として生きているわけでも、個人として死んでいくわけでもない。冷たく厳しい現実の生活では、各人は孤立し、互いになかなか理解しえない、バラバラに生きる存在だと感じていても、実際には、その美しく山々を淡い色に染める桜と同じ存在なのだ。桜は、やがて花を散らしながら緑の葉を広げゆく。涼やかな木陰を作りもすれば、枯れ枝の季節を過ぎて、次なるつぼみを膨らませていく。私たちもまた、その一部であり、その豊穣なる自然に見守られ、包まれている存在なのだと、そう思ったことを、言いたくなった。
 
 しかしそのようにコトバを構築し、口に出そうとした瞬間、なぜか、私は胸の奥から感情の大きな塊が這い出てきて、喉元で言葉をせき止めた。かわりに、涙や嗚咽が湧き上がり、名づけようのない強い感情に全身が震えそうになった。しかも、両腕がビリビリと痺れてきて、
「なんだか、上手く話せないんですけど・・・・、なんでかわからないんですけど・・・」
と必死に言い訳するだけで精いっぱいだった。

 私自身は、何か自分に重なるものを見たわけでもなく、描かれた哀切に満ちた感情に強い共感を覚えたわけでもなかった。むしろ、まるでドラマみたいだと思いながら、見知らぬ人々を眺めるぐらいの気持ちだった。
 それなのに、なぜなのか、「感じたこと」を言葉にして口から出そうとしたら、ああなってしまった。
 
 私にはときおり、こういうことがある。

 私にとって、しばしば「言葉を声に出す」ことが、過剰な露出に感じられる。
 言葉で語ることが、生々しすぎて、まるで何の覆いもなく、太陽を直視させられた時のように、言葉のエネルギーが、肺から口から溢れて、自身の体を制御できなくなる、とでもいうように。

 それで、私が、ずっと昔からうすうす感じていたことを、改めて思い知った。
 それは、私が感じる、カウンセリングの絶対的な限界。

 強く、全身全霊で感じることは、言葉にできない。
 昔、その人にとって最も大切な、そのひとの本質に関わる記述である「真の名前」は、決して口に出してはならないとされたように(ゲド戦記で、ものの名を操る力そのものが魔術であるとされたように)、本当に意味があるコトバであるほど口から語られることはできないのだ。
 カウンセリングを始めた初期は、私がしゃべるのが苦手だからだと思っていたけれど。さらに、カウセリングを重ねるほどに、語られることの薄っぺらさを感じてきたものだったけれど。そしてついに、昨今では、自分の志向や感受性までも薄っぺらく表面的になっていくことを自覚して、カウンセリングに飽くようにすらなってきているのを感じていたけれど。

 どうやら、私が口から発することができる言葉は、軽々しく中身のないものばかりなので、話すためにばかり言葉を使っていると、感覚自体が鈍化するらしい。
 自分自身の微妙な感情や感性は、話す言葉にはなりえない。
 だから、考えたことを話そうとした瞬間に、構築された言葉は崩壊する。「話す」前提で、言葉を組み立てると、断片的にしかまとまらない。話すという営みに身を投じている間は、自分は何かを繊細に感じることはできなくなる。

 つまり、少なくとも私にとっては、話すという営みをとるか、書くという営みを取るかによって、感受性が明確に変わるのだ。
 
 コンパが苦手、懇親会が嫌い、な原因も、ここにありそうな気がする・・・。
 話すことによって、何かを共有するのが苦手なはずだ・・・。
 だって少なくとも、私自身が深く何かを感じ、何かを捉え、何かと同化したりつながりあえたり理解できたりする感受性は、言語によって深められるにしても、それは、書くことによってのみ可能だということだから。

そして、とりもなおさずそれは、「うーん・・・」と言ったきり、黙り込むクライエントの姿でもあるかもしれない。
 そのクライエントは、しっくりくる表現が見つからなかったり、言葉に出してみた瞬間に違うと感じたり、あるいは、言葉にすること自体の野蛮さに耐えられないでいたりするかもしれない。

 コトバには、力の強いものも弱いものもある。強すぎる力を持つコトバは、声に出して発するにはあまりに眩しすぎたり、鋭すぎたりして、熱すぎたりして、柔らかい心を傷めもすれば、混沌に陥れたりもする。明晰さと論理性が大きく欠如した、心という厄介なものに立ち向かうカウンセリングは、何かのコトバを避けるばかりでは思うようには進まず、かといってあからさまに立ち向かっても痛みのうちに頽れてしまう。
 そういうクライエントに対して、カウンセリングの中でどう、コトバの威力を超越し、使いこなせばいいのか、今の私はあまりに未熟なのだ。
 ただ、書くことにおいては、そうした言葉の野蛮さや強烈さを乗りこなすことができる気がする。書くという営みは、うっすらと繊細で消え入りそうな感受性とも共存できる気がする。一方でそれは、クリエイトの力でもきっとある。

 と、言うことが分かった、先日の、ライティング・プロジェクトでした。