のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

コピー人間とロボットの目指すもの

機械に人間の心を持たせたがったり、機械を人間らしく振舞わせたがったりする一方で、人工的に新しい人間を創り出すことに嫌悪感を感じる人は多い。不思議なことに、私の上司がそうだったように、コピー人間というのには理由もわからないまま本能的に拒絶しても、より人間らしい機械には好意的な興味を抱くのだ。


所詮、機械は機械。人間を超えることなどありはしない、そんな絶対的な優位性を無意識に感じているから、機械による人間のコピーは許せるのだろうか?不思議な心理だといつも思う。


人間のコピーを禁じたい、と思う人が良く口にするのは「人間の尊厳」だ。コピー人間を作ることを許すこと自体が、自然の生殖を軽んじ、もしかしたら存在する見えざる力への冒涜につながると思っているらしい。けれど、無生物の尊厳は大昔に失われているし、生物への敬意も地域差が在るとはいえ、薄れているところでは限りなくゼロに近い。人間への尊厳、だけが唯一前線間際の危うい攻防に晒されながらとりあえずは守られている。


自らへの尊厳なので、その喪失によって崩れ去るものはとてつもなく大きいだろう。コピーが作れるなら、自分の命なんてそれこそ大した価値はない、と思う人がさらに増えても不思議はないだろう。だから、そうした危機を潜在的に知っているから、コピー人間への生理的な嫌悪を人は抱くのだろうか。


それでも、仲間がほしい、というこれまた本能的な人間の欲求は変わらない。相手が機械だろうと、犬だろうと、自分に従順で誠実な仲間を常に欲している。家に帰ると、尻尾を振って迎えてくれる犬と同じように、ちょっぴりおぼつかない足取りで手を振って出迎えるロボット君が家にいたらいいな、とみんなが思うのかもしれない。