のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

大地の子エイラ

大地の子、といっても山崎豊子さんではない。ジーン・アウルによる人類創始期大河ドラマ(て書くと、ひく?)である。その上中下3冊からなる第一部を読了した。


人類の黎明期、最後の氷河期の終わりごろのヨーロッパ北部。
秩序だった慣習と伝統によって安定した部族社会を守り続けるネアンデルタール人社会に迎え入れられた、クロマニョン人の少女アイラ。
斬新な想像力と好奇心、高い知能と勇気、生への強い欲求を持つ彼女は、氏族の間に様々な波乱を巻き起こしていく。
彼女の独特な視点や洞察は、氏族に必然とも偶然ともつかない幸運を招き寄せる一方で、当の彼女自身を危機においやる。
ネアンデルタール人は、精巧な道具を作る高い技術や、霊力を信じる観念的思考力を持ちながら、一万年もの長い間ただ同じ日々を繰り返してきた氏族であり、アイラがもたらす変化は常に不安を伴う凶兆として人々の目に映るのだ。


それでも、アイラを受け入れる人々が示す深い愛情は、ネアンデルタール人の朴訥ながら他者への敬意を忘れない慎み深い種族の崇高さの証明だ。アイラの養母となったイザは、氏族中最高のまじない女で、あらゆる植物の効能を古代から伝わる無意識の記憶として持っている。様々な草の葉や根、樹皮など煮たり焼いたりしながら実践的な知恵で病を癒す。また氏族のリーダー、ブルンを筆頭に、男たちは狩にでかけ、大きな獲物を引っさげては女たちの待つ洞窟へと帰る。


というような世界に、わたしはここしばらくどっぷりつかっていた。頭のすみっこでは、私も洞窟に一緒に暮らしているような気がして、図書館からの帰り道、夕日に向かって自転車をこいでいきながらも、文明化された現代社会の実感がわかなかった。


アイラは、古い世界の崩壊と新しい世界の生成のはざまに立ち現れた存在として、古きものから新しきものへとバトンをつなぐ。アイラが背負う新世界の危険性に唯一気づいていたリーダーの息子ブルンとの確執は、個人的な憎悪と恐怖の火花を散らしながら、背後にある壮大な世界の新旧交代を暗黙のうちに悟らせる。その憎むべきブルンの子供をアイラが身ごもるのは、まさに象徴的だ。滅び行く氏族が存在の証しも残さずに消えていくことのないよう、アイラがそれを次代へとつなぐのだ。


というわけで、この物語は実によくできていて、その世界にすっかり巻き込まれながらわたしは打ちのめされてしまった。人類黎明期の暮らしぶりや技術、文化が細部にわたるまで詳細かつ丁寧に書き込まれた世界の完成度にはめまいがするほどだ。
ひじょうに良くできた作品には、人を圧倒する力がある。それが文学であれ、絵画であれ、映画であれ、なんであれ、名作と呼ばれるものたちには、それ自体にエネルギーの源泉が結晶化されているかのようだ。人を魅了し取り込む力は、こんこんと湧き出て絶えることがない。
時代が変わっても、人を包み込んで離さない魔力を持ち続け、その前で人々は無力な存在に成り果てる。


一方、話はそれるが、昨日見た「ザ・ビーチ」(デカプリオ主演)には、逆の意味で勇気付けられた。キャラクター作りのヌルさや、要所要所に見られるストーリーの説得力の無さにほっとさせられる。タイの隠れた小さな島に、作られたビーチリゾートの秘密の楽園というその発送自体が結構イケていると思うので、その分欠点が明確になってよい。そういう観点からは、二級の作品には二級の作品なりに人に力を与える存在意義がある。


世界が天才ばかりでなくてよかったと思う。
そんなことを思っている自分の凡庸さを心の片隅で蔑みながら、
世界はいろんな人がいてよかったなあと、
やはり多様性は生命が生きながらえるのに不可欠な要素なんだなぁと
しみじみ思うのであった。