のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

no title

たとえば、小説を書こうと思うときに、そこに卑猥だったり下品だったり残酷だったりするものが含まれていたとしても、本来は、周囲の誰に対しても憚る必要なんかない。なぜなら、そこで描こうとしているのは、自分自身の性格や行動ではなく、現存する現実世界であり、複雑で多様な人間の本質なのだから。人間は、当然ながら論理的でも理性的でもない存在なのだから、その存在の様々な部分をくっきりと浮き彫りにするためには、色んな手法が必要なのだ。
だから、自分がこんなことを考えているなんて他の人に知られたら恥ずかしい、という思いなど、全くの邪魔であるだけでなく、見当違いでしかない。ジョン・アーヴィングは(彼が言うまでもなくごく当たり前のことかもしれないけれど)、作家は図太くなければならない、といっている。
当然のことだ。

それにしても、愛と憎しみが両立するアンビバレントな感情を、私はこれまで抱いたことがなかった。知識としては知っていたけれど。
私が、そうした複雑で混沌とした感情を経験するよりずっと先に知っていたのは、無関心からはどんな感情も生まれないということで、だから愛の対極にあるのは無関心であるということだった。
もしかしたら、今も私の感情面の経験値は上がっていないのかもしれない。自分に対して、誰かに失望させるのはすまない気持ちがするけれど、自発的に誰かを嫌うことはないし。
いま、感情的にとても空虚なのは明らかだ。過去、空虚でなかったときはほんの少ししかなくて、その時間はあまりに短かったために、空虚でないときの自分やそのときの気持ちがどういうものかは、うまく掴めていない気がする。

今日は、些細などうでもよいことに落ち込み、そこに自分の矛盾した愚かな感情を見つけ、観察しているうちに自分の経験の乏しさに改めて気づいた。