のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

英語と日本語、標準語と方言

EFTの英語版セッションのDVDを見ていると、自分の感情の保持の仕方というのは、言語によって様々に異なるということが、良くわかる。
私は英語をしゃべっているとき、明らかに、性格が変わったように感じていた。
それを友達に聞いてみたこともある。私が感じるのは、低いレベルの英語故、という可能性もあると思ったからだ。
それでも、カナダで修士号を取り、TOEIC満点の友人も同じことを言った。
「ええ、そりゃもう英語しゃべっているときの方が、むちゃくちゃ強気になりますよ」
やはり。
アメリカ人のEFTセッションでは、日本人にありがちな、意見をいう時の遠慮がちな雰囲気や曖昧さがほとんどない。それは、論旨が明確な彼らの言語体系に由来していて、多分、心の中で感情を表現するときでも、感じる主体が常に確固としているからなのだ。
もちろん、彼らにだって、自分で感情を押し殺す抑圧というのはある。けれども、自分で自分に「ある」と感じている感情の認め方が日本人とは違っていて、日本人が感じているよりもずっと明晰に(あるいはシンプルに)自覚されているだろう。

と、いうのが日本語と英語の話。
そしてこの言語の違いが保持される感情のあり方に及ぼす影響は、さらに方言にまで敷衍できちゃったりする。

常々思っていたことなのだけれど、東京の人というのは、とてもクールである。
ある人は江戸は「建て前の文化だ」といっていた。
私のお気楽な観察では、東京出身の東京人は、あまり自分を笑いのネタにしない、でも突っ込みは得意、という傾向がある。感情を抑制してクールに振舞うのが都会的、という言い方もできる。
これが、千葉や埼玉や神奈川の出身になると、微妙に変化が出てくる。東京近郊の出身者の面白さ加減と、東京都市部出身者の「面白さ加減」には絶対に差がある、というのがわたしの見解だ。
お笑い芸人を出身地域で分けて人口比で割ると、東京人の率はきっと低いと思う。


なので、感情の吐露が効果の出方を左右するEFTでは、関東人よりは関西人のほうがやりやすい、ということになるのではないだろうか?

というような話をTFHの講義中にしたら、東京人の講師から面白いことを教えてもらった。
それをまとめると、どうやら、次のようなことがいえる。
東京というのは、大体が田舎者の集まりで、いろんな方言をしゃべる人の共通の言語として生まれてきたのが標準語。だから、標準語はもともと、より広い間の人々の間で表面的な意思の疎通をするためにできており、近しい人々同士でしか現われないような感情をのせる語尾やイントネーションというのはあまり組み込まれていない。

というわけで、基本的に建て前文化を持つ江戸の血を受け継ぎ、かつ、標準語のメッカとして発展してきた大都会、東京で生まれ育った人たちは、感情を露吐するツールをあまり持たない。そんな風土は、海外から「日本人は何考えているのわからん」といわれる原因にもなるんだろう。

というなかで、最近東京の若者の間で、方言がはやっている、というこれまた興味深い現象もあったりして、いろいろとさらに思索の網は広がっていく。

でもさ、関西より関東の人の方が感情を表に出さないのはそうなんだけど、もっと北の方に行くと、もっとさらに何も言わない(私から見ると)なんだよ。
すると、たとえば、盛岡とか秋田の人を相手にEFTをやるのは、さらにちょっと難しいのか、というとそれは少し違う気がする。
なぜなら、田舎の人は、すれていないので、その素直さが協力的に働くという面もあるからだ。

いろいろと、奥が深い問題である。