のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

客観的になること

昨日、J-waveの番組で、ドイツでヒットラーを描いた映画が作られ、近隣諸国からその内容について苦言を呈された(ものすごく内容省略してます)、という話題を特集していた。
その映画を撮った監督は、ヒットラーを「普通の人間」として捕らえたかったと言い、そういうふうに客観的に過去の事実をみることが、なぜできないのか、理解できない、とコメントしていた(大体のところ)。


パーソナリティの人が、
「そうやって『客観的に見る』、こと自体に耐えられない人たちがいる」
と言ったとき、
『客観的』というのは、「他人事」と言う意味なのかもしれない、と思った。


『客観的』であるということは、中立で冷静に物事を分析する冷酷なインテリジェンスであり、その冷酷さは新たな傷を作るのかもしれない、と。


あなたの作ったこの傷が今も痛むと言われたときに、
よく傷を調べてごらんなさい、痕なんかないでしょうと答える客観性は、
古傷を癒す何の役にも立たないらしい。


とはいえ、他方では、
自分の受けた傷でさえ、
損傷の程度と影響の大きさを測ることで、
重要性を低く見積もろうとすることもある。
けれどこちらでもそれは、抑圧と呼ばれ、
傷が癒えたように見せかけたツケはどこかに回る。


つまりは、
じゃぁ、いったい何が傷を癒すのだろう?というと、
たぶんそれは、本人が持つ強さであり、自らの治癒能力、なんだよね。


ちなみに、私は『客観的』に映画を見たい。
だって、私はホロコーストについては、他人だから。
他人には「他人事」な視点がふさわしいでしょう。
代わり(と言っては何ですが)、私たちには、別の「他人事ではない」ことがあるしね。