のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

セラピストの力量というものについて

とどのつまりは、そういうことを考えていたのだと思います。
昨日の日記の中で、私自身が受けた「影響」の大きさに何故にああまで動揺したかという理由のひとつは。


もし、クライアントの抱えている問題に対して、セラピストが、多数の回答となりうる選択肢を提示しその視野を広げる手助けをすることができるのなら、EFTは大きな効果をあげることができる。けれどもし、クライアントが深い思慮とか大いなる自制心とか、高い能力、社会的地位、十分に広い見識を持っていてもなお袋小路に入って助けを必要としているのであれば、セラピストにできることはあまり多くないかもしれない。


けれど、そうした考え方は、あらゆる人がすでに自分に必要な能力を本来持っている、という美しい思想にのっとれば(そして私は、それを採用することに決めたわけだけれど)、問題の本質は、セラピスト自身がクライアントのほうが「できた人間である」と思い込むところにあるともいえるかもしれない。


その思い込みの背景には、「より高位のものが下位のものを救う」という傲慢な考えがある。なのでまぁ、そんな考えは遠くに追いやることにして、それでも残るのは、自分はこんなに他者からの影響によって揺らいでしまう存在である、ということそれ自体に対する不安感なのだ。


EFTはセットアップフレーズとして、様々な無くしたい感情、代わりに得たい気持ち、姿勢などを言葉にしていくけれど、ときにセラピストが強い誘導を行うので、クライアントがとっても「大人物」だったら、さぞやりにくかろう、というのが本日の日記の趣旨である。
(前置きが長くなりましたが、かなりシンプルな問題でしたね)


なぜなら、EFTは時々(というか、しばしば)、客観的な視点や新しいものの見方を提供する。しかも、それを言語化する。
あるいは、セラピストは相手の意思を汲み取ることに心血を注ぐ。相手が一番コアで望んでいることをきちんと引っ張り出し、それを言語化する。
この「言語化」には、時々プレッシャーを感じる。
言語化は、不定形の何者かに形を与えることであり、あいまいに拡散しているものを制限し、明示するものだから。必ず、そこには取りこぼしがあり、錯誤が生まれる。逆に、最初無かったものが勝手に付属してしまうこともある。それ独自に歩き出す生きた獣でもあるのだ。
扱いは、慎重に。
そして、慎重でいるために、揺らがない自分が必要になる。


それについて、今日一生懸命考えました。
考え付いたことは、仕事の合間に手帳にメモしたのでそれをここに書きたいと思います。


セラピストにできるのは、クライアントの悩みの元になっている信念の、皮相な部分をどうにかしようとすることではなくて、もっとずっと本質的なもの、あらゆる物事に内包される何かをさらに純粋化した部分へのアクセスなのだろう。
いろんなツールを使ったり様々に形を変えたセラピーが世の中にはいっぱいあるけれど、ヒーリングが起きているときには、それが必ず共通して動く流れが生じるのだと思う。


そしてその根本にアクセスするためには、自分自身の中に純粋化された信念を保持し続けなければならない。
けれど、それはまさしく私がこれからずっと続けていくであろう学習の中で、常に追い求めるべきテーマなのだ。
カウンセラーもコーチングも、ひとつのライン上にある人々をサポートする、同じ作業であることを常々感じてきた私にとって、よりどころといってもいい。相手がエグゼブティブであろうとニートであろうと等しく向き合う基盤はそこにある。


それを、どれだけ揺らぎなく保持し続けられるか、それをセラピストの力量と呼ぶことに、します。