のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

正常ですか?病気ですか?

先日、ある人の口から
ADHDは病気です」
という言葉を聞き、私は一瞬ぎょっとした。


人が『病気』というとき、何故かそこには2種類の響きがある気がする。
風邪を『病気』と言うときと、
統合失調症を『病気』というとき。


前者は、多数派のもので、
後者は、少数派のもの。
同じように病気として診断されるものであっても、
少数派のものは、隔絶され、特殊な地位を与えられる。
すなわち、普通ではない、と。


バンドラーのUging your brainを読むと、「わが意を得たり」と思う記述がたくさんあり、なかでも、誰かを正常だと思う根拠は、他の多くの人と同じであることにある、という点にはとても深く同意する。
ノーベル受賞者のボーアが唱えた原子論が何十年もたってから、正しくなかったと認定されたように、いま、正しいと考えられているあらゆる科学的理論は、「今のところ分かっている中では一番矛盾なく物事を説明できるモデル」でしかない。


それでも、今のところ分かっている中で、観測可能な事象を記述する最善の方法を見つけようと言うのが研究者の立場だと思う。
だから、真摯な研究者ほど、今ある理論を絶対不変のものとして見るのは愚かなことだと、思っているとずっと思ってきた。
でも、そういう事情をよく知らない人ほど、「科学的にありえない」っていうのよね。


診断を下すことの功罪は、その目的がどうあれ、
結果として
正常ではないという確定的なレッテルを人間に貼ってしまうことにある、と思う。


正常って何?
寒いところにずっといて、ウィルスに侵されて発熱するのが正常な反応なら、
人並みはずれて感受性の高い人が人としゃべるのを拒絶するのも正常な
反応といえるのじゃないでしょうか?


と思いながら、私がうんうん嬉し楽しく読書をしていて気づいたこと。


それは、英語を使うと精神状態が変化する、ということである。
昔から自分の体験を通して感じていたことなんだけれど、
脳の働きについてのバンドラーの洗礼を受けながら考えると、
その理由として、これまで採用してきた、英語は右脳的言語で日本語は左脳的言語、という説に基づく仮説を捨てたくなってきた。


代わりに頭をもたげてくるのは、
普段使わない外国語で思考したら、
(少なくともその間は)鬱は治るのではないか、
という新しい仮説です。


つまり、鬱をもたらす思考パターンが、今まで用いていた言語ではない言語を採用することで、変化する、ということです。


ところで、
少数派を疎外し、多数派のなかに守られたいという欲求の裏には、
隔絶された孤独への恐怖があるのだろう。
それは、もしかしたら群れでしか生きられない太古の本能的な記憶の名残かもしれない。
けれど、今の人間社会では、ある程度の特殊性をもつ少数派こそが社会を操作しているというのは皮肉なことだ。


突飛なことを言うと、
いわゆるソウルグループから離れて落ちてくるのも、
隔絶された孤独に身を投げることになるのだろうか。
また、動物ソウルグループから抜け出して、人間の魂に「出世」するのも似たような体験なのだろうか。
・・・ちょっと違うか。
結局、どんな見かけ上の相違があっても、同じ仲間だと思えるようになることが魂の浄化に繋がる大切な学習だとすれば、これもやはり仕掛けられた教材ってことなのだろうねきっと。