のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

幸福の王子とセラピスト

昔、私が小学校のころ憧れていたものと言えば、
幸福の王子と、観音様。


アップライトのピアノの上に、観音様の写真を飾ったのは母だった。
今思えば、それは暗に(というよりも、あからさまに)自分で始めたいといったピアノの練習を、延々何年もサボり倒した私への無言の戒めだったのであろうか?
だがしかし、その清浄なお顔が、日常的な怠け癖からの脱却を促す、などという高尚な思考に当時の私が思い至るはずもなし。


その代わり、思春期を迎えて一人前に発達した感受性に振り回されていた私が思っていたのは、この観音様みたいに、自分が持っている妬みや自尊心や強欲さから自由になれたらいいのに、ということだった。


誰しも、自分の中に持っている身勝手さを疎んじている。
だからこそ、他の誰かにもっと親切にしたいと願い、無条件に他人に優しくなりたいと願い、自分が良い人間に見られたいと思っている。
そしてだから私もその当時、さらに憧れていたのが幸福の王子だった。


幸福の王子を知らない方へ:
幸福の王子は、銅像です。自分のサファイアでできた眼とか剣の柄に埋め込まれたルビーとかを困った貧乏な人に分け与えた挙句、みすぼらしくなって取り壊されてしまうという(ちょー適当に簡略化してますが)オスカー・ワイルド作のお話です。


この簡略化の仕方からも察することができるように、あまり話の本質を考えず、ただ、私はそういう風に自分を犠牲にして奉仕できるようになれればいいと思っていた。


でも、『自己犠牲』、という考え方は正解ではないらしい。
そして、『利他主義』というのも正しいわけではないらしい。


誰かを助けたいと思い、
その人のために救いの手を差し伸べるそのやり方は、
意外にとても難しい。
相手の要求に応えることが、相手のためになるかどうかを見極めるには、
それなりに頭を使うことなのだ。


頭を使うときに、重要な原則は、
「変えられるのは、自分と未来」。
自分が助けてあげようという「傲慢さ」を振り払いながら、
それでも、自分にできる何かがあると信じ続けるために、
自分自身の矛盾を無くしながら、自分が成長し続ける努力をしよう。


強い風に吹かれながら、でもまっすぐ歩く。
窓から見える夜景は、澄み切った空気の中で、くっきりと光を放ち、
一つ一つの灯りが、その存在を教えている。


自分にできること。
改めて、思いました。