のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

ナラティブセラピー

今日は、ブリーフコーチング研究会というところの主催による
ナラティブセラピーについてのセミナーに参加してきました。


今日のセミナーは、心理学の学術的バックグラウンドを持たない私には大変大変勉強になると共に、とても興味深いお話の数々&ロールプレイでした。


なにしろ、日記にも昨日書いて思いいれも新鮮なグレゴリー・ベイトソンが参加者の一人であったところの、メイシー会議なるものの話から始まったのですから、私にはすでに、ワクワクものでした。
メイシー会議は、通称サイバネティックス会議とも呼ばれ、ノーバート・ウィナーフォン・ノイマン、クルト・レヴィン、フォン・フォルスターその他色々な世界の様々な分野のトップクラスの科学者が集まった画期的な会議です。(いいんでしょうか、こんな適当な表現で)


話は、フォルスターが唱えた『記憶の数式』で、すでに40年前に提唱されていた、
「記憶は絶対的なものではなく、とくに通常とは異なる行為によって変わりうる」
という話から始まり、
セカンド・オーダーサイバネティクス
セカンド・サイバネティクスからの
ナラティブセラピーへの流れについて述べられていきました。


サイバネティクスのベースにあるのはシステム理論ですが、ここで注目されるのは、同じ状態を維持し続ける固定的なシステムの恒常性ではなく、今あるシステムから新しいルール、発展性が生まれる過程です。


そこに行き着く流れとして、さらには、
アッシュ(米)の同調行動の研究や、
モスコビッチ(仏)による集団圧力のもとでの少数派の影響によってルールが変わる現象、の働きなどがあるということです。


そしてちょっとセミナー内容を割愛しますが、
話は、モダンからポストモダンへの流れを通って、
ナラティブセラピーは、型にはまった具体的な技法やモデルを持たない、という点で多元的世界観に近づく多様性をベースにしており、ポストモダン的であると解説されます(とはっきり言うのは実は語弊があるのですが)


ちなみに、モダンの説明については、その特徴は一元的価値観にあり、それをフーコーが「知と権力」で唱えた、近代の権力としての「情報」の蓄積で説明を展開していきます。
情報を持つものこそが、権力を保持する、というフーコーの思想は、ベンサムパノプティコンという監視塔に象徴されます。


パノプティコンを中心にして周囲に牢獄がぐるっと配置されていて、囚人に自分が監視されているという観念を植え付けさえすれば、効率的に囚人の統制が取れる、という構造になっています。ここでは、情報を握っているものが権力者であり、情報こそが力です。
そして、この近代的価値観で追求されるのは、効率のアップです。


ちなみに、情報こそが力である、というのは、今でも十分近代的価値観の中で生きる私たちに通用する話であり、情報を収集することは交渉力の高さに繋がる、という心理学的な話からの面白い例え話もありました。
具体的に言うと、例えば、クレーム係では、まず相手の話を聴いて情報を収集しろ、と。
それは、傾聴とか相手の気が済むというだけの問題ではなく、その後の交渉を有利に進めるための方策でもあるということです。


で、それはさておき、
話題がそれたついでに、私の話題もそれていきますが、
監視、ということについては、私自身フーコーの本を読むずっと前に文章を書こうとしたことがあったことを思い出しました。
それは、自ら監視対象となったとある少女のお話、なのですが、もしかしたらそれは自ら情報を提供しまくることで、実は権力の拘束から逃れていたのではないかというのを、今日思い至りました。(書いていたときは意識的には何も考えてなかったんですけど)


つまり、情報が権力足りうるのは、隠蔽したい情報、あるいは、獲得して活用できる情報があるからで、それはつまり一元的世界観が存在するから成り立つことで、べつに隠さなくてもいいと思うような状況、これまでとは異なる価値観の多様性が生まれてきたら、それは権力でもなんでもなくなるよね、ということです。


もし、
「あんたが万引きしたことは知ってるんだよ」
という台詞が、相手に対して拘束力を持つのは、万引きという犯罪が社会的倫理的に許されないという事実があるからであって、
もし、その国全体がちょ〜福祉国家(っていうの?)で、困ったときはお互い様思想が異様に発達していたら
「は?」
で終わるので、その情報は全く何の力も持たないわけです。


ちなみに、ごく最近耳にした話では、自分のプライベートな時間を趣味でネット公開している女性が何千人といるそうですが、これなんか、まさにそんなかんじ。


微妙に違う?


私もそんな気がしないでもないですけれど、効率性を主眼とした一元的世界観はスローフードロハスばやりだけでなく(スピリチュアリティもそうかしら、と思ったものの、一部には微妙に効率主義が混在している気もする・・・)、もっと主義主張がないかたちで着実に崩れていっている部分があるのかもしれませんね、とそんなことを思いました。


でも、よく考えてみると、私が書こうとした自ら監視対象になる女の子、というのは、全ての情報を自ら提供することで失うものが無くなることで逆に強靭さを手に入れるというイメージであったように思います。
それはつまり、情報(権力)の格差を取り払ったポストモダンのあり方でもあり、ひいては、クライアントとセラピストの全く対等な立場が基盤となるナラティブセラピーにも通じるものがあるわけで、私が常々セラピストとしての理想として考えている姿勢は、私自身の深層意識に埋め込まれた課題であったのかなんて、それは自分を良く取りすぎ?
まぁ、「よく」取りすぎているかどうかは判断が分かれるところとして、いずれにしろ、対象との力の格差を望まないところとか、多様性を認めたがるところは、昔から変わらない自分の「好み」なんだろうとは思うわけです。


てなわけで、
最後に強引にナラティブセラピーに戻ると、
ナラティブモデルは、物語をどうクライアントが語るかに注目し、それまで選択してきたプロット(体験の選択と重み付け)を変化させ、別のストーリー(オルタナティブストーリー)を作る、ということです。


で、そのオルタナティブストーリーを作るのに必要なのが、問題の外在化(出てきた感情を、自分に内的に従属するものとして自己を傷つけることがないよう、外に出してテーブルの上に載せる)であり、また、重要となるのは、具体的なセラピーのモデルを持たないという前提で示す「好奇心」にあるようです。



微妙にですね、NLPで教えるものに似てます。
似てますが、同じではない気がします。
何がどう同じでないかというのは、えっとー、まだうまく説明できませんので、できるようになったらそのうち。


あと、
講師の若島先生は、お名前の通り、とてもお若いルックス(いや、本当に若いっぽいですけど)の上、すっとぼけキャラな笑いを取る大変面白い先生でした。
大変コストパフォーマンスもよく、とても満足のいくセミナーでございました。

以上。