のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

意識が邪魔

邪な魔と書いて邪魔、と読みますが、
悪い魔と書いて悪魔。


字面だけ見ると、後者のがより悪そうです。
かなり、どうでもいいことですが。


ところで、
過去の私がもっとも意識が明晰だった時期、私は左右の脳を統合する
とある訓練をしていました。結構まじめに。
その甲斐はあったなぁと、当時書いていた文章を読んで思う私。


何かの本に書いてあったことですが、人間は訓練好きな動物です。
怠惰に過ごしつづけると必ず頭をもたげてくる
「このままではいけない」感は、
私だけのものではないのではないでしょうか?
もっとも必ずしもそれは、「いけない」という認識で現れるとは限らず、
何かをしたいとか、「変化」したい、という欲求として多少なりともありそうです。


トビーが朝、必死に私を起こして朝ご飯にありついたあと、
夕飯までは、のんべんだらりんと寝そべって幸せそうに
過ごしているのとは対照的です。


かの「ものぐさ太郎」でさえ、お風呂にも入るのが面倒といいながら、
自分の体から出てきた垢で「垢人形」を作るぐらいです。
本当に徹底的にものぐさなら、垢人形なんて作っちゃいけません。
あの荒唐無稽な昔話には、結局人間は何かの創造性を発揮してしまう
という隠されたメッセージがあるのでしょう(ほんとか?)。


とにかく、
誰しも何かの変化(できれば自分にとって良い変化)をどこかで求めてしまうらしく、
私も思いっきりその例に当てはまっているようです。
で、本題に戻しますと、話は左右の脳の統合です。


いつも思うのですが、理性をつかさどる(といわれる)左脳と、イメージ力や
直感をつかさどる右脳という対比は、意識、無意識の対比にとても似ています。
「右脳を活性化」と、「無意識の力を使う」。
似てません?
片や現実の組織を呼ぶ言葉で、もう片方は概念的な言葉なので、そもそも
同じであるとは言いがたいのですが、
使いやすいようにラベルされた意味付けがなんだかとても似ていると
思うのです。
(もともと「右脳の働き」という括りで明確に機能の役割分担をできるのか、
という意見もあるし、脳梁を切断した分離脳では右脳と左脳で「言うことが違う」
という話もあるあたりが面白く。)


それに無意識、という概念がもたらす可能性の範囲すらはっきりしませんし。
無意識の力を使う、という言い回しがされるとき、多くはその文脈に沿った
定義の共有を暗に要求され、その意味は変化自在なのじゃないかと思うほどです。


さすが、『無意識』。


でもその話はさておき。
右脳(あるいは無意識)を活性化しても、
現実の認識と上手に「統合」されないと、その実力を十二分には発揮できない、
というのが私のスタンスです。
で、題目にある「意識が邪魔」をする、という認識に話はつながるわけですが。


そもそも、それが『邪』であるとか『悪い』とかの認識は、
結局は「意識的な判断」から生まれているわけですよね。
そういう、判断からは自由になりたいものです。
大体、判断てことは、意識的に行われていそうですし。
意識が、意識自身を悪者扱いしている、
まさに、自縄自縛。


もっとも、意識は無意識と違って、コントロールしやすいという面があります。
なので、吉川悟さんのセミナーを受講した私は、現在
「システムズアプローチ」かぶれになっていて、
余計にそうした「判断」から解放されようと、さらに強く思っているわけです。


でもここにシステム論の話を持ち込むと、今日のわけわからない日記の内容が
さらにわけわからず分散するのでそれはさておき。
(さておきだらだけの今日の日記・・・。)


判断から自由になって解放されたあと、人がどこに向かうか、これは大きな課題です。
逆にいえば、どこに向かうかがわからないから、解放されたがらない人々、というのもいます。
「判断」は、少なくとも向かう方向の明示には役立ちます。
その「判断」を採用するから、自分に負けつづけるとわかっていても、
方向性を失うよりよっぽどマシなのかもしれません。


バンドラーはその著書の中で、
スィッシュパターンは、新しい方向性を与えるところに意味があると書いています。
変化させたい現況を消すのなら、その場所を埋めるべき何かが必要だ、というものです。
信念を変える、ときにも同じ理屈があります。
システム論でいけば、(それがどんなに苦痛なものであれ)システムは安定に戻ろう
とする働きがあるので、埋めるべき別のものがないと、また同じものが舞い戻ってくる
危険があるということです。
あ、simple talkの細谷さんも書いてましたね。
「物事は真空を嫌う」


でも問題は、それを選べる状態にないとき。




「統合」すれば、何かの方向性が生まれる、そう信じていいのでしょうか。
統合が左右の脳なのか、意識と無意識なのか、それはまぁどっちでもいいのですが、
停滞した場所で自然と変化を望んでしまうのが人間ならば、
その方向性は外から与えられなくても、自ら生まれてくると、
信じていいのでしょうか?


一応、言っておくと、多分、いいと思います。
ええ、いいと信じましょう。


余談ですか、フィリップ・カーの小説だかで、
「信じることは、論理が欠如した考えを受け容れることだ」
というようなことを書いていた気がします。
ちょっと同意。


「統合」というのは、いつでも私にとっての大きなテーマです。



ちなみにもし、世の中に「完璧な統合」があるとして、
そしたら、それは「悟り」と同じことかもしれない、
なんて、そんなことを考えつつ、
私の終わらない混沌とした妄想は続くのです。