のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

今日は休日でした、ヒャッホー!!

 この日曜日は、午後3時に『整体&もみほぐし』@カラダファクトリーに行くだけで、他に何の予定もないのんびりした休日を過ごした。

 最近の私は、ご近所のカフェでコーヒーを飲みながら本を読むことが一番の楽しみになっている。そこで、凝り固まった体をほぐしてもらったあと、嬉々として本を携えて近くのショッピングセンターのカフェに入った。

 まず開いたのは、「ハイライズ」(J・G・バラード著)という読みかけのSF小説だった。

 1975年に書かれたこの本は、ロンドン中心部の再開発地域に建てられた最先端(という言葉がすでに古っぽいけど)の設備を備えた40階建ての巨大マンションを舞台とした物語だ。知的かつ高所得の専門的職業者が住まい、レストランやプール、銀行、学校、庭園と生活に必要なすべての施設を兼ね備えた1つの街のようなマンションのなかで、下層階、中層階、上層階の間でのちょっとした格差意識が、凄惨極まる戦闘に変わっていくという話。
 まっとうな人々が押し隠していた身勝手な心理が、少しずつ染み出るようにしてマンション全体がどんどん荒み、みんなが狂っていく過程が、とてもスリリングではあるんだけど、正直、読んでいて気持ち良くはない。
 なのでまだ半分ぐらいまでしか終わってない。
 結末を知りたい一心で読み進めたが、今日も3ページぐらいで寝てしまった。
 
 いやいや、これではいかん。
 と、もう一冊、『運命を開く』(中村天風著)の方を手に取った。

 こちらは、有名な中村天風さんの教えを、12章の講演録のようにしてまとめたもので、一昨日、アマゾンから送られてきたばかりだ。
 まだつるつるした表紙の文庫本を開くと中村行者(日本初のヨガ行者なので)が、強く揺るぎのない調子で“心”のありようをグイグイと説き聞かせてくれる。

 いわく、
 「一切の森羅万象と称するものは、宇宙本体のエネルギーの分派によってつくられている。」
 「人間は、万物の中で、この宇宙本体の分派分量を最も多く頂戴している存在である。」
 
 そして、
「“心”というものは、一切の生命の中核を無、“霊”という“気”の働きを行うために、与えられている。」

 なおかつ、
 「“気”は動かなければならない」もので、「“心”が“霊”というひとつの“気”の働きを行う」ときの心の活動は、「思うことと考えること、つまり“思考”によってのみ“心”の活動が行われる」


 (このダイアリー、なんか無駄に長くなってますね。少し端折りましょう。)
 つまり中村氏は、「思考」は気の働きであり、気は森羅万象全てとつながっているものなので、思考をおろそかにしてはならない、人間は、「絶対的に積極的」にあらねばならないと言っているのである。
 
 「ぐでたま」な皆さんには、耳なし芳一よりも耳が痛いにちがいない。しかし、本は全ページを通じて、手を変え品を変えあらゆる方面から、この「人間としてあるべき生き方」を説いてくるのであった。
 
 そういう素晴らしい本を5Pほど読むと、また私の瞼は重力の従順なしもべとなり、世界と隔絶する扉を閉じてしまった。(つまり寝た)
 
 そしてその後、しばらくして私は帰途に就いたのだが、気持ちの良いカフェでの眠りのお蔭か、中村天風氏の叱咤激励が効いたからか、因果は不明ながらも、ほどほどに積極的な明るい気持ちになっていた。

 家に帰ると、ピカピカの天風氏の本は験三郎さんの餌食となった。多少の歯形はついたけれど、しかし中村おじいの神通力は絶大である。ソファーの片隅で、いまも「絶対的な積極性」へと誘う微細な思考の気を送り続けている(気がする)。


 明日も引き続き、天風さんの本を読んで、「絶対的な積極性」を身に着けて明るく生きて行こう。
 私は深くうなづきながら、この有意義な週末に感謝を捧げて眠りにつくのであった。

 明日は、夫の誕生日だ。
 でも、朝から仕事に出かけて、そのまま遠くに行ってしまうので、私は今日のうちにケーキを買って、お祝いをした。

 50歳を超えた立派なおじさんにも、丸いケーキで誕生日のお祝いをしてもらう権利はあるのだ。子供のいない、50代夫婦ふたりだけだとしても、もちろん。

 夫は、いまさら、誕生日でもあるまい、と思っているかもしれない。けれど私は、キャンドルを立てたホールのケーキを前にすると、誰でも子供のような無邪気さを取り戻せる、あるいは、取り戻すことを許されるのだと、どこかで感じている。
 
 ロウソクの先で揺れる炎を見つめながらハッピーバースデーの歌を唄い、一息に吹き消す。
 先っぽが焦げて黒くなったロウソクを一本一本抜き取っていくのは、互いへの照れ隠しを紛らわすのに丁度よい作業だ。店員のようにケーキの中身を説明し、どのくらい食べたいか、希望を聞いて慎重にケーキをカットする。
 
 あるころから、誕生日は、それほど特別な日ではなくなった。あっという間に1年が過ぎ、もうお正月かとため息交じりに思うように、誕生日も物珍しくなくなって久しい。
 それでも最近は自分の誕生日よりも、連れ合いの誕生日の方が、もうちょっと感慨深い。

 君の誕生日を祝えるのも、あと何回残されているのかと、ふとそんなことを考えるようになったからだろうか。
 誕生日は、「生まれてきてくれてありがとう」だったのが、「生きていてくれてありがとう」に少しずつ変わっていく今日この頃のバースディ。