のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

橋を架ける、ということ。

 今日ようやくミュシャ展に行った。
 並ぶのは嫌なので、オンラインでチケットをゲットし、なおかつ、公式HPのツイッターを繰り返しチェックし、込みそうな時間を調査した。そしたら、平日ど真ん中でも、開館30分前に既に50人の列ができていた(!)というではないか。早起きで勤勉な日本人の習性ゆえか。ならばと、朝1番は避け、お昼ぐらいに着くように家を出た。
 (というと、いかにもわざと遅く出たように聞こえるけれど、実際は、うだうだしていたらその時間になったのであった)


 目論見は当たり、私はチケット売り場の長蛇の列の横をスイスイ進み、スカスカ状態の2階展示室の入り口を通過することができた。
 今回は音声ガイドも借りて中に入る。すると、いきなりテレビで見た巨大な絵画が目に入ってきた。特に最初の星空の中にスラブの神様が浮かんでいる風景に目を奪われた。


 スラブ叙事詩は、どの絵も大きいけれど、そのなかでも大きな絵がいい。なんとなく全体が煙るような幻想的な色遣いのせいか、見ているとふんわりと包み込まれるような心地よさがある。それが、サイズの大きな絵ほど大きく温かなエネルギーとなって伝わってくる気がする。

 でも一方で、描かれているのが民族の苦難の歴史でもあるので、一番近い場所に亡骸が横たわっていたり、戦い疲れた人々が得も言われぬ瞳でこちらをじっと見ていたりするのを見ていると、大量の難民発生と同時にその排斥運動が起きている最近の世界情勢のことなんかも頭がよぎり、いったい私たちって何なんだろう、と思ってしまったりもする。


 昨日のニコ生の放送を、私はまだ聞き終えていない。社会主義が全世界で失敗に終わり、勝ち残った資本主義、市場第一主義においては、富の再分配のシステムでうまく回るはずだった。けれど、それだけでは立ち行かなくなり、必要なのは、マイノリティの主義主張を尊重し他者を承認する、対話と多文化主義が大事なんだ、となったはずが、それも急激なグローバル化によって、今や限界にきている。マイノリティに配慮しすぎて、疲弊してしまったアメリ中産階級が、そのよい例であり、国境を超えたボーダーレス化の中では、富の再分配と多文化主義に我慢の限界が来ている。
 この状況に対して、いったい人文知は、何ができるのか?という問題提起への話し合いがこのあと始まる(私の視聴予定においては)。
 
 というわけで、私はトークの途中までしか進んでないので、この後どんな議論が起きてくるかはまだ見れていないのだけれど、でもこの時点で、カウンセリングをするものとして、「承認も対話も、限界にきている、それだけではダメ」というところには、思わず、
「やっぱりねぇ〜〜〜〜、そうだよね〜〜〜」
と強くうなづいてしまった。


 カウンセリングをするものとして、って逆なんじゃ?と思われるかもしれない。けれど、実際のところは、自分がカウンセリングをやっていたからこそ、めっちゃ対話に懐疑的にならずにいられなかったのだ。


 いや、全然ダメとは言わないけれどね。ただ、万能ではないし、限界がある。「対話」によって相手を理解しようと本気になればなるほど、届かない歯がゆさを感じずにはいられないと、私自身は感じるのだ。
 感じない人は、ただ鈍いか、頭悪いかのどっちかなんだろう、と正直思っています。(何故かココだけ丁寧語)


 じゃあ、私たち(私)は何を欲しているのか、何をすればよいのか。
 それを、私は今も探しているし、まだわからない。
 ただ分かったのは、というか、改めて再認識したのは、私の探しているテーマは、ミュシャが言う、「(他者との間に)橋を架ける」ことかしら、ということだ。

 自分が何をこれからやっていけばよいのか、やるべきなのか、の根幹にはそれがある、気がする。そこが明確にならないことには、好き勝手に遊びほうけることができない。
 ほんとは、自分がただひたすらにのほほんと、遊び呆けたいんだよ、でもそれを許さない自分が、いるんだということなんだよね・・・。

(なお、コメント書いてもらうと、連絡が来ます。いつも読んでくれてありがとう!!special thanks!昨日のコメントにはお返事書きました!)