のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

男性中心と、女性中心と・・

 今日、葉室麟さんの、「蜩ノ記」を数ページ読んでから、掃除機をかけ始めた。掃除機かけは、不思議と思索が進む作業のひとつで、本を読んで感じたことが、さらに頭の中で展開していった。

 『蜩の記』は、江戸時代の武家の話なので、バリバリの家父長制のもとで男性たち主体の物語が繰り広げられる(と思う。←まだ読んでない)。だからそこで前提とされる価値観は、そもそも男性が作り上げたものなのだ。
 男性・女性で何でも二項対立で考えるのは、間違っているかもしれない。けれど、今の社会制度で美徳とされる素養・素質の評価や判断基準のほとんどが、男性のマジョリティが生み出したものなのではないだろうか。

 もしも、女性が社会制度を作るポジションに多くついたとしたら、何が好ましく、何が好ましくないか基準は、全然変わってしまうかもしれない。

 最近、従軍慰安婦の問題でまたいざこざが続いている。夫と電話で話した時にも、ちょっとそんな話題が出た。そこで私が、
「これはでも、日本のジェンダーギャップのせいでもあるんじゃないかな。つまり、日本の政治家とか交渉の場に、女性がもっといっぱいいたら、こんなにこじれなかったんじゃないかな?」
といったら、夫は、
「えー、いやそれが関係ある?やっぱり韓国のやり口がいけないんじゃないの?」
と、あまり賛成はしてくれなかった。

 でも、もしあのおっさんばっかりでにやにやしながら物事を決めていく官邸のなかに、4、5人の女性が混じっていたら、事は違う方に転んだんじゃないかと、やっぱり思う。
 なぜなら、それは日本が悪いとか非難する韓国が悪いとかもあるかもだけど、そもそもこれは女性の受難の話だよね、というふうに容易に本質的な方に意識を持って行きやすいと思うのだ。

 今の状況は、ある部族の男性たちが、自分たちの部族の女性を他部族の男らに蹂躙されたことを憤っている、という要素がどうも強くみえる。私だけ?
 まぁ、私の母は、約束を反故にして金をせびり続ける、みたいなことで嫌悪感を示しているので、女性なら誰でも連帯できるというのは幻想だとはもちろん思いはするけれど。

 ただ言いたいのは、男性中心社会は、競争がより促進されて、相手と融和するよりも、いかに負けないかが目的化してしまいやすい。
 女性ばっかりだったら、もっとなぁなぁでいいと思うし、自分が折れるたり、下に見られたりすることへの抵抗も少なそうだし、衝突も少なくなるんじゃないだろうか。
 女性を高く見すぎかな?

 でももっと女性の発言権が大きければ、より1つのことに集中し、より物事にこだわって成果を挙げ、より多くを稼ぎ、そして競争に勝つことが良いことである、というような無意識の価値観は、これほど強く社会にはびこらなかったんじゃないだろうか。
 そう、行き過ぎた資本主義、ということですが。

 とあれこれ考えた私は、そのあと仕事に向かう準備をしながら、あー、今日は働きに行きたくないなー、休みだったらよかったのになーと思う自分を「間違った社会常識、偏った価値観のと思うことで正当化しようとしていたのであった。