のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

男性の脳、女性の脳・・ってあるのか?

 どうも、もやもやする。

 例のセクハラ問題。
 我が国を代表する財務大臣の、どんな突込みにも屈しない、「セクハラがなんぼものんじゃい」的発言の数々をみていると、どうにももやもやするのだ。
 かれの、世の流れに飲み込まれまいとする芯の強さは、ある種あっぱれなばかりだ。つまり、それだけ自分の感覚に正直なのだ。自分の認識が社会一般の認識とずれていないという強い自信もある。
 そしてそれは、間違っていないと、私も感じている。つまり、平均的には男性の方が女性よりも仕事に全般に向いていて、公的な場では男性が優位であるべきだという認識が、日本社会においては広く認められている。それは現実だと、私も感じている。その上で、多少のコトバ遊び程度のことがなんぼのもんじゃいと、思っているということだ。

 だからこそ、日本のジェンダー指数は、百三十何位なのだ。日本の総理大臣も、財務大臣も、財務官僚トップも、ナンバーツーもそうであるだけではなく、市井のおっさんサラリーマンも、パートのおばちゃんも、おじーちゃんおばーちゃんも、そして大学生の若者たちも、なんとなくそんなふうに結局は思っている。男性は仕事、女性は家庭が似合っていると。

 しかし、なぜそうなったのか。それは、社会的なシステムがそうだからなのか?
 仮に、社会的システムがそうだからだというのなら、男尊女卑的社会的システムが発達したのは、どういう要因からなのか?生物学的な性差が、物の考え方や、思考形式の傾向、関心の対象にまで影響を及ぼしていることは容易に予想できるのだから、たんに作られた社会システムがそうさせたというより、遠因となる生物学的な性差があると考えたくなるのは自然な流れだ。
 そして、もしそうだとしたら生物学的性差は、私たちに何を突き付けていて、それを私たちはどう解釈すればいいのか、(私たち、っていうか、解釈したいのは私だけかもしれないけど)を、ずっと考えている。

 思えば、私はこの疑問を、高校生のころからずーっと考えていた。これだけもやもやと考え続けるんだから、ジェンダー論とかを研究すればよかったのかと、最近思うぐらい。(余談)

 胎児期に男性ホルモンを浴びると、脳の働きが変化することが知られている。また、13歳から18歳の間、つまり第二次性徴期(性ホルモンの分泌による性差の発達の時期)に、男性、女性それぞれの脳の神経経路の働きに相違が表れてくる、という研究もある。
 NHKのBS-プレミアムの番組で、サルの赤ちゃんでも、メスは人形に興味を示し、オスはトラックのおもちゃに興味を示したという研究結果が紹介されていて、それぞれの傾向には決定的な違いがあると知った。

 コーエンさんという、自閉症研究者が、男性はよりシステム型思考、女性はより共感型思考の傾向が強いと述べている。これがそもそも、男性脳、女性脳という区分けの始まりのようなのだ。ちなみに、システム型思考とは、システムを考え、構築する思考のことで、物事を体系的に捉えようとするともいえる。で、この「物事を体系的にとらえる」姿勢は、対人関係においても表れるので、大きな目的に向けて人を組織し、采配を振るうことに秀でていくということになるのだろう。

 しかし、個人差がある。もちろん。

 で、何がもやもやするか・・・、というと、そうした男女差をどう受け入れればいいのかが、よくわからないからかもしれない。きっと私自身がどこかで、このシステム型思考が成し遂げるさまざまな「成果」を、より優れていると、何処かで思っているのだ。と同時に、「負けている」と感じて、くやしい気もしている。

 めんどうなことに、システム型思考が基盤になって世間の価値・評価基準のスタンダードが作られている(だってそのシステム型思考の持ち主によって、概ね社会システムは創られているのだから)。さすれば、そこで作られたシステムにおいての優劣の判断は、システム型思考の人々の観点によってつくられるのは、自然流れだ。
 そこでは、「個人差」といったことは、むしろ軽視される。ひとりひとりの気持ちや感情などに寄り添い、個性に配慮、尊重していくのは、大きなシステムを構築する方向性とはそぐわない、むしろ、感情型思考の得意とするところなのではないだろうか。

 となると、何で女性は、「大志」を抱けないんだろう?という疑問自体が、暗に「大志を抱くことがよいこと」という価値基準に染まったが故の疑問であり、システム型思考の価値観に毒されている所以なのだろうか?

 もやもやは、まだまだつづく。。