先日、ナラティブライティングトレーニングの2回目があった。今回のお題は、写真から物語を書く、というもので、昨日描いたのが、実はその内容。
この文章について、飼い犬についてベタベタの甘ったるい話を聞かされるとちょっと、と思ってしまうけれど、この文章は、犬自身の目線から客観的に書かれていて、また、訪れた場所の原発うんぬんというのも描かれていることもあって、最後の飼い主の思いもすんなり入ってくる(かなり端折った大意)と言うようなことを言われた。
で、この原発がどうのというのは、何か意図があって書いたのか?と聞かれて、あまり考えてはいなかったけれど、最後の場所がそこだった、ということ自体が、自分の中でとても大きなものとして残っていたから、つい書いてしまった、と私は答えた。
通常だったら、その私の発言のあと訪れた静かな沈黙が漂っている間、もう少し待って、次のコトバが生まれてくるのを待つのだが、私の場合は、特に待たれることもなく、すぐに次の人のストーリーに移っていった(ように感じた)。
なので、それ以上に何か上関町について深められることはなかった。
しかし、物足りなさというものは、充足感よりもむしろ、その後に何かを残すものだ。
誰の協力もないので(笑)、仕方なく自分だけでその後、考えてみた。そんなに犬の話は、やっぱり、犬かったことない人には受け入れがたい感じがしちゃうのかな、とか、私が泣きまねすると犬が心配してきてくれるとかいう話をしたのがダメだったか、とか。
でも考えているうちに、そもそも私はこのとき、トビーを連れて上関海峡を訪れた時に、あの浜で感じたこと、波のない静かな場所で見たことを何か、文章にしたいと思っていたのだった。実際、文章にしてみようとして、そしてどうまとめて良いか、わからないまま挫折した。
何がどうつながるのか分からないけれど、今思うと、ちょっとつながる。
人が、年々減っていく小さな町。瀬戸内海につきだした半島の先には、小さな入り江がいくつもあり漁村としても反映した。沖には、祝島という大変おめでたそうな島が浮かぶ。そこは、万葉集にも歌われた神舞が行われる場所で、多くの人が集まり、栄えてきた歴史のある場所でもある。
けれど、いまやそこの人口は、1970年の8300人から2015年には2800人まで減ってきている。うっそうと緑の木々が広がってくるのを何とか食い止めるように、小さな砂浜が海浜公園に整備されていたけれど、その浜にはあちこちに草が生え、公衆トイレもあまり人が使っている様子がなくて、ぎりぎりで形を留めているような場所になっていた。
そうした過疎の町を、子どもがいない夫婦が、もうすぐ死を迎える年老いた飼い犬を連れで訪れた。これは十分に、いろいろとリンクし、象徴的じゃないか。いまさらながら、なんとなくそういうのに気づき、それを書きたかったのかぁと、いまさらながら思った。
そして、さらに書いているいま、思いついた。もしかして、この全てが老いて消え去っていきそうな寂しさ満載なところに、みんな思わず口をつぐんでいたのかしら?
だとしたら(だとしなくても)、この物語には何か、いずこかに救いがなければならない。あの映画で、小さな女の子が遠くを見ていたような、そんな救いを。