のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

青い風

 マロンは、車に乗ってどこかへ出かけるのが大好きだった。お出かけ用のバックが出てくると、長い胴体をくねらせるようにして全力でしっぽを振る。山でも海でも大歓迎で、自然の中を意気揚々と歩き回った。
 広いところが見渡せる展望台で人間たちが景色を見ていると、高いところから何が見えるの?!と言わんばかりに、足もとで飛び跳ねる。けれど、垂直にジャンプするのは、ミニチュアダックスフンドの腰には、大きな負担だ。
 あわてて抱き上げてやると、遠くの山並みに目を向けて、いつまでもじっとしている。すでに、その目は網膜の病気で見えなくなっていた。それでも、すっと伸びた鼻先を空中につきだし、くんくんと鼻の奥にまで空気を吸い込む。鋭い犬の嗅覚で、そこに含まれる潮の香りや、春先の木々の匂いを味わい、さらには、海を渡ってきた風が、いったいどこの場所からやってきたのか、細かな土の粒子までを嗅ぎ分けようとしていたのかもしれない。

 マロンは、埼玉県で生まれて、生後1か月半の赤ん坊のころに盛岡に引っ越した。2歳を過ぎて、また埼玉県に戻り、しばらくしてから、今度は山口県で1年半を過ごした。また埼玉に舞い戻り、今度は、隣の市にお引っ越し。その間、盛岡や山口を何度も行き来し、青森や九州にもたびたび足を延ばした。
 その犬生の大半は、移動とお留守番の繰り返しだった。いくら外に出かけるのが好きでも、飼い犬に移動の自由はない。留守にすることが多い飼い主にいくら吠えても、玄関ドアがバタンと閉じる音がしたら、もう声はとどかない。帰りを待つ時間が長い日が続くほど、お出かけ用バックが出てきたときの喜びはひとしおだった。
 マロンはいつでも、猛烈にしっぽを振りながら、バッグに喜んではいりこむ。ただし、次はどこへ連れて行かれるかわからない。運が悪い時には、気づけば消毒薬の匂いと、仲間の不安なうめきが聞こえる病院にいる時もある。やれることはただじっと到着を待つだけだ。それでも、透けたメッシュ越しに飼い主の足先や顔を観ては安心する。ここが僕の居場所だと。
 やがて、ジッパーが開く音がして暗かったバックの中に光が射しこむ。その瞬間そとに飛び出し、ブルブルと体を震わせればいつでも新しい世界が開けるのだ。

 その日は、瀬戸内海につきだした半島の突端にある上関海峡と言う場所に出かけた。奥に見えるのは、上関町の西半分を占める長島で、さらにその西に分け入ると上関原発がある。上関町は、典型的な過疎地で、毎年、人口が減り続けている。島に渡り、海浜公園につくと、2,3人の人影があったが、すぐにどこかにいなくなってしまった。マロンは、見えない目で、あちこち匂いを嗅ぎながら、波のない静かな浜をゆっくりうろついた。
 マロンにとって、それが最期の遠出だった。しばらく前から、透明の鼻水が垂れ続けていて、鼻腔内腫瘍があることが分かったのだ。それから透明な鼻水が赤い鼻血に変わったりもしたけれど、あのときの静かな海と、沁みるような青い空を渡る風が、いつまでもマロンの鼻腔に残っていてほしいと思う。