見えない自由が欲しくて
みえない銃をうちまくる
本当の声を聴かせておくれよ
どうやらそれは、ある種の試練のように、私に定期的に訪れるものらしい。
今日のカウンセリングは、私の苦手な、子育てとの両立ができず、転職を考えるクライエント。私では共感も出来ず役にも立てないという、苦い後味が残るものだった。
真面目に仕事にも取り組んでいるけれど、子育てと仕事の両方を日々こなしていくのは、あまりに負担が大きい。時間も能力も足りなくてフラストレーションが募る。分かってもらえないし、分かってもらおうとも思ってないけどね、だって現実はどうしたって八方ふさがり。
そんな失望感と苛立ちに布をかぶせてラミネート加工したような無表情と淡々とした話し方に、私は終始、困惑するだけだった。
初対面の人と会って話すのは、いつもプレッシャーだ。
だから、こういう仕事に向かうとき、いつも私は、恐れと不安を抱いている。行きたくないなーと思いながら出かけていく。
しかし、よく考えてみればこういう、自分の無能さに打ちひしがれる苦々しい思いを何度もしているんだから、行きたくもなくなるよね・・・。
そうか、そんな因果関係だったのかと、いまさらながらの発見だった。
ずいぶん単純で当たり前な感情だけど。
当事者(私)は、よくわからなかったりするんだな。
発見ついでに、私はそれでもこの仕事を続けているのは何故?かを考えてみた。
そしたら、行きたくない気持ちのもう一方の極に、世の中の人々の辛さが無くなるといいなーとの思いが、そこはかとなくあり続けていることも発見した。
とある哲学者が、「人々が幸せになるにはどうすればよいのかを、真剣に考えている」のだと知って、なんていい人だ!と胸が熱くなるぐらいには、ずっと思っていることなのだ。
これまた当たり前すぎて、自分の衝動を全然意識してこなかった。それでつい自分にも何かできるんじゃないかと勘違いして、手出ししたくなってしまったのか。
そうか、だからカウンセリングの仕事を続けているのか。
なぁんて思いながら、ツイッターを眺めていたら、とあるお寺の掲示板(有難い教えとか、訓示みたいのが書かれているやつ)にこんなフレーズが書かれていたとの報告があった。
“見えない自由が欲しくて
みえない銃をうちまくる
本当の声を聴かせておくれよ”
もと歌は、ご存じブルーハーツである。
iPhoneで久しぶりに聴いてみたら、「なんという名曲!」であろうか。(と100回目ぐらいに思った)
カウンセリングとかより、この歌を彼女に聞かせてやればよかったのかもしれない。
“世界中に定められた
どんな記念日なんかより
あなたが生きている今日は
どんなに素晴らしいだろう
世界中に建てられている
どんな記念碑なんかより
あなたが生きている今日は
どんなに意味があるだろう”
届くかどうかわからないけどね。
でも、聞いてほしい。あなただってきっと、栄光に向かって走る、Train-Trainだから。
(写真は、ボスポラス海峡ぞいにあるルメーリ・ヒサーリ。コンスタンチノープル陥落を目指して、トルコ軍が作った砦)