のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

母のこと

 『希望』という言葉の明るい前向きさとは対照的に、『願い』という言葉には、消しきれない切なさが潜んでいるように感じる。

 いつか、母のことを書こうと思う。十分に年齢を重ね、とても静かに、けれど周囲の誰も予想しなかったぐらい素早く、不意を突いて逝ってしまった母のことを。

 エピソードは例えば、母が入院した真新しい病棟の、そっけないほど殺風景な病室に、私が持ち込んだ一輪の芍薬の花の香りのこと。

 母は、鮮やかなピンクの花弁が内側からこぼれるように咲く丸い膨らみに、小さくなった顔をうずめた。まるで、乾いた病室の希薄な空気にずっと酸欠を起こしていて、ようやく待ち望んでいた自然の栄養素が手に入ったとでもいうように、母は、何度も深く花の香りを吸い込んだ。あまりに強い母の渇望を見た私は、それですっかり勘違いをしてしまった。

 感染症による面会制限が緩和されたとはいえ、面会は午後の決められた時間にしか許されていなかった。片道2時間以上かかる場所に住んでいた私は、仕事がある日は来ることができない。今日が日曜日で、次回、会いに来られるのは週の後半だ。4日間の空白のあいだ、母が持ちこたえられるかを心配していた。

 けれど、じゅうぶんに花の香りを楽しみ、満足げにベッドに身を横たえた母には、以前とは違うエネルギーが注ぎ込まれたみたいにみえた。私は、ひとつ大きな手柄を立てたような気分で、カレンダーを指し示して次に来れる日を教えた。

「また来るから。待っていてね」と何度も声に出していった。そして、芍薬から力を注ぎこまれた母は、力強く頷き、請け合ってくれたのだ。

 うん、分かった。待っているよ、と。

 そして私は、決して自分が叶わない願いを抱えているわけではないのだと、安心して家に帰ったのだけれど、翌々日には、その確信めいた頷きは、私を安心させるための企みだったのだと知ることになる。

 考えてみれば、母は最後まで、とても母らしかった。

 『願い』というのは、ときに、叶わないことを知っていてなお、望まずにはいられない、虚しい心の叫びなのだ。

 亡くなってもなお、母はそばにいて、私のために力を使ってくれた。叶わない願いを帳消しにしてもいいぐらいのその優しさを、いつか書きたいと思っている。