のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

なぜに私にはオーラが見えないか?

最近、museさんで交流会をした折に、オーラを見るコツみたいなのの話になった。
そこには、オーラを見えるようになった、という人も、以前からもやもや見えていたという人もいて、未だ見えない気がしている私は、興味深く人々の話に耳を傾けた。

あるオーラを見える人が、
「でも、色とかがわからないんですよ」
というと、museさんが、それはまたさらに次のレベルだから、とおっしゃった。
うん。それはなんとなく予想がつく。
最初は、白いもやもやで、さらに感覚が優れてくると、その人の状態としての色が分かってくるのだろう。

んで、自分のことに立ち返ると、私は自分で言うのもなんだけれど、見えない。
でも、別にみえたからってどうってことはない、と言ってくれる人の意見なんかを聞くと、
自分に都合のよいことはどんどん取り入れるたちなので、そっか、そうよね、と簡単に納得してしまう。

納得しながらも、でも、他の人に見えるっちゅうのに、自分に見えないというのは、それはそれでやはり気になる。
気になって理由を考えていたんだけれど、色が見えるのは次のレベル、という一言で、なんとなく自分で理由が分かった気がする。

結果から言ってしまうと、私はまだ、オーラや色を見るだけの心の準備ができていないのだ。
心の準備とは、誰でも等しく畏敬の念で見ることができる気の持ちよう、ということです。
誰でも等しく畏敬の念で見ることができる、というのはシュタイナーさんの本の一番最初に書かれていたことで、他者を見るときの最も大事な基本姿勢なのだ。

今現在、私は、わりと(わりと、というレベルですが)、他者を公平に見ることができる。過剰な先入観や性急な判断を下さずに、その人を見ていこうという姿勢を、とりあえず保つことができる。
けれどこれがもし、ぱっと見、もやもやと黒い煙のようなオーラがその人を取り巻いているのが見えてしまったら、私はその人から逃げ出さずにいられるだろうか?
とげとげしい形の光がつんつん背後から突き出しているような人に、にこやかに笑いかけられるだろうか?

さいころ、私はオバケが怖かった。
見た、という鮮明な記憶もないままに、私には霊とかそういうのは見させないでください、と切に神様にお願いしたのを、今もはっきりと覚えている。

たぶんそれは、賢い選択ではなかったかと思う。
小さいながらも、なかなかに。
多分、その見えるものは本来「怖がる」べきものではないのだ。けれど、もし怖がらずにはいられないほど「幼い」のなら、見えないことによって間違った認識を持たずにすますという道を選ぶことができる。
私が選んだのは、そういう道だったと今は思う。

見る、ことで怖がる自分を克服する方法もあるだろうし、
怖くないから見える、ということもあるだろう。
その違いこそが、人それぞれのオリジナル。

というわけで、
私の場合、もしもオーラの色とか見えるようになったら、
私も成長したものよのう・・・
と、思うことでしょう。