人間は、環境の生き物だ、という意見がある。周りの環境によって、価値観が作られ、行動が規定される。周囲の人の反応から、善悪の基準を学ぶし、美醜への判断も産まれる。
変化を引き起こすものとして、「必要に迫られて」というのは、確かにあるよね。きっと、私も1か月後にたくわえが底をつく、となったら、どんな仕事でも有難がって必死にやろうとするでしょう。
実際、
「なんかもう働きたくないな〜、明日休みにならないかな〜」
とか思っていたくせに、閑散期に仕事が減らされるという通知を受けて、途端に青くなっている。危機感と僻みにさいなまれて、昨日の夜はそのことばかり考えてしまった。
ただ、必要に迫られてやる行為は、あくまでも、必要に迫られてやる行為なんじゃないだろうか。それが本質的に自分の変容につながるためには(本質的な変容があるとして)、その行動を継続したのちに、自信が生まれたり、行動の中に楽しみや意義を見出したり、ほかに自分が変わる要因が生じてくる必要がありそうな気がする。
でなければ、「必要」の母がいなくなると同時に、やらなくなる。
私の人生、その繰り返しのような気がする。
つまり、必要の母がやって来て、脅迫めいたことを耳元で不気味に呟く。それで、仕方なくやる。でも、彼女が遠のけば、サボる。
なので私も、一旦は体重がへったものの、先週末にホテルのブッフェランチなんかを食べに行ってしまい、胃が拡張して体重は元通りとなった。
一方、私の姪は、9月に結婚式を控えて、着実にダイエットを続け、きつすぎて背中の肉がはみ出ていたウェディングドレスの再度の試着で、少しやせすぎ、と言われたそう。
なかなか、人間全般の本質を表している。
必要に迫られて行動する、ということは、日常よくある。けれど、「変容」にまで至らせる必要があるとしたら、それはトラウマになるぐらい恐怖に打ち震える、「地獄的必要」なのかもしれない。
「もう絶対、変わる!!」と心の底からおもわずにいられない苦痛や試練を与えられなければ、変わらない。
私の場合、幸運に恵まれたおかげで、そうした地獄に突き落とされずに済んでいる。ただそのために、てきと〜な人格が、てきと〜に保たれ、大きな人間的成長につながる変容はできていない。
困ったもんだな。
ちょっと仕事が減っちゃうぐらいのことに、大きなショックをうける、自分の精神的軟弱さと弱さが情けない。でもまぁ、それで暮らしていけなくなるわけじゃないからいいか、と自分をなだめ、今日もバリバリと丸大豆せんべいを食べている。