のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

自己開示、というもの

 今日、社会人の方のキャリアカウンセリングをした。その方は女性で、研究職に従事していて、そして、自分がこのままでいいのか、やっていることに疑問を感じ、転職を使用か悩んでいた。
 あまり感情をあらわにしない、理系の研究者にありがちと言えばありがちな、落ち着いた話し方で、研究にモチベーションが持てないのだと言った。その理由と思われる出来事や状況について淡々と語り、その上で彼女は、そもそも自分が本当に研究をしたいのか、分からない、と呟いた。
 聞いたことがある台詞だ。
 『私は本当に研究がしたいんだろうか?』
 それは、私自身が研究職をしていたころに、頭のなかをぐるぐる廻っていた考えだった。

 今思い返してみれば、あの頃、自分は本当に研究を進める気はなかったのだと感じる。あるとき、何かがすっぽりと抜け落ちるようにして、「意欲」が無くなったのだ。
 しかし、今日のカウンセリングでは、そんな自分の思い出に浸っている余裕はない。私は頭の片隅で、ある種の比較対象の参考値になるかもしれない1ケースとして、あのときの「やる気のなさ」の感覚を確認するように思い出しながら、クライエントがモチベーションを持てなさ具合に耳を傾けた。

 あまり表情の変わらないクライエントは、それでも、自分がやりたいと思っていた何ができなくて、でも何をしたかったのかを、少しずつ言葉にしてくれた。やがて、今の会社でもやりたいことをできる部署があるかもしれないと自ら口にした。やはり、さほど浮かない顔のままで。

 最後に今日の感想をききながら、つい、私自身も研究者だったことを告げてしまった。また私も、研究をしたいのか疑問に思い、結果、仕事を辞めたのだと。
 すると彼女は目を丸くし、その日いちばんつよく感情を顔に出しながら、
 「そうなんですか!?」と返してきた。
 「どうしてやめたのか、とても聞きたくなりました」
 と、それまでよりワントーン高く、意思が感じられる声でいった。
 その瞬間、私の頭の中に浮かんだのは「失恋」の一言だった。
 けれど、それを口に出す代わりに、
 「ん〜〜、なんていうか、研究への興味がすっぽり抜け落ちちゃったんですよね。結局、研究は私に向いていなかったんだと思います」
 決して嘘ではない、しかし、つくづくと意味のない答えをしていた。

 終了の挨拶後、クライエントはカウンセリングルームから外に出た。私はそのまま個室に残り、彼女が、最後の手続きのためにドアの向こうに佇んでいる気配をじっと感じていた。私は何かを大事なことが言えなかった気がして、猛烈に声をかけに行きたかった。
 けれど、そのとき、私は何をいえばよいのか、上手く言葉が見つからなかった。

 家に帰ってきて、もしあのとき私が「失恋」という、身もふたもないコトバを出していたら、何か変わっていただろうかと思う。もし、人ってそんな理由で簡単にモチベーションが下がったりするし、自分のこれまでやってきたことが全部無意味に見えちゃったりするよね、少なくとも私は、そんなふうにそのときの感情と気分に押し流されて、これまで生きてきてしまいましたよ、と言ったとしたら。
 そんな「いい加減な人間」を垣間見ることで、彼女の中の何かが氷解したらよかったのにと、私は半ば祈るような気持ちで思う。根拠のない希望的観測だと知りつつも。

 私のカウンセリングはいつも、自分の小心さや虚栄心の殻から抜け出せない。最後に、なんだかいつもスッキリしない。何より、一番肝心な時に秘密主義で、相手に対して誠実になれない。そして、自分自身の卑小さを呪うことになる。
 でも同時に、本当にそうしたほうが良かったかどうかもわからない。ただ、遅い夕飯のため、冷凍食品を温める電子レンジのターンテーブルがぐるぐる回るのを見つめている。

【後日の追記】単に自分が「いいたい!!」だけのこと
 仕事をしていくうえで、湧き上がってきた「ここをもっとやりたい!」はすごく重要なことじゃないだろうか。
 それは、「労働(labor)」を「仕事(work)」に格上げすることだから。
 一方でこれを言いたくなったのか、私の学生相談が、自分が何かを作り出す「仕事」から、同じパターンの繰り返しである「労働」に堕しようとしていることへの危機感からだともおもう・・・。