のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

小説の中の人々

「なぜ君は小説の中で人を死なせるんだ?」
彼の問いに答える彼女の返事には、どこか嘲るような響きがあった。
コントラストよ。死は生を際立たせるの」


the times」の中で語られていた印象に残る言葉。

彼女に初めて会ったのは、2000年の9月のことだった。インターネットの出会いサイトで私が探していたのは、同姓の友人だった。もっとも、実際にメールを取り交わしたり、一度だけとはいえ実際に会ったりした異性がいなかったわけではない。ほんの少しのいたずら心もまじえながら、それでも私が求めていたのは純然たる「友達」だった。


理想の恋人、というのが時々人々の話の種になる。それは恋人を想定している人が男性か女性かで、大きく内容は異なるけれど、人々はそこにある程度の集約された恋人像というのを思い浮かべることができる。理想の恋人、理想の夫、理想の妻。それらは、個々の人々の心の中でそれなりに具体的イメージを持ちながら、互いの会話の中で破綻することのない程度の普遍性をもつことができるのだ。
ところが、理想の友達、というのはあまり話し合いの場には上らない。それが友達同士で話すテーマとしてはいささかばつが悪いものだからか、それとも、理想の友達像として共通するイメージを結ぶのが難しいからだろうか。


答えは後者にあるような気がする。すなわち、ある人にとっての理想の友達は、別の人にとっては全く興味ない人である可能性が高いということだろう。


そうした話題性の低さは、そのまま、自分にとっての友達を考えるきっかけを失くしているような気がする。
すくなくとも、私は自分にとってどういう人が理想の友達なのかなんて考えたこともなかったし、どういう友達がほしいかすら、自分では良くわからなかった。


それでも、彼女にあったころの私は、日常生活がとても孤独だった。多くの時間を一人で過ごし、ほとんどの食事を一人で食べた。新しい職場に行き始めて間もないころで、そこの無機質で寡黙な雰囲気を息苦しく感じていた。

彼女は、精神科の医者だといった。それはまさに、私の始末に終えない好奇心の求めるものに合致していた。
人間の心の破綻を病理として扱う。その冷徹な知性にあこがれた。


というところで、これからごはんなので続きはのちほど。