のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

『白痴』とガラパゴス

『白痴』
それはズバリ、ロシアの文豪、ドストエフスキーの『白痴』です。
今私は、ムイシュキン公爵やらナスターシャやらに(ちょっと)夢中です。


なぜ今頃自分は『白痴』なぞを読んでいるか、
考えてみれば不思議なことだけれど、
どうやら、私には今ちょうどそれが必要だったようでした。


なぜか説明はできないのですけれど、
ここに描かれた、血管切れそうなほどの強烈な感情に翻弄される人々の、
やむにやまれずそれぞれの自尊心や強欲さや卑劣さや生真面目さや怯えや羞恥や苦悩や深い洞察やなんやかやにまみれながら生きている姿が、
私にはとてもいじらしく愛おしく感じられます。


さすがドストエフスキー
(と今更、私なんぞが褒めるコトでもないかもしれませんが)
よくできた小説というのは、
人間のあり方を、本物の人間を見るよりもっと鮮明にあぶり出していて、
分かりやすくシンプルな状況下で美しくまとめられた理想的モデルを解説する実用書
とは、一味もふた味も違うと思うのです。
それは、読者それぞれがそれぞれに必要な何かを感じ取れるように複雑に入り組んで
準備された多層性であり、重厚さと言うものでしょう。


そして私が「白痴」から得たものといえば、たとえば、
ロードオブザリングで「いとしいしと」と繰り返しつぶやくスメルゴアの
醜い姿の中にも秘められている、必死な人間のいじらしさ、だったりします
(スメルゴアは人間なのか?という話はさておき)。
それは、例えその人の信念全てが過ちで、自らを破滅へと導くものであったとしても、
人間を内側から駆り立て、突き進ませる、抗いようのない「何か」と
いってもいいかもしれません。


そして、その「必死さ」へのいとしい気持ちは、
私自身のリアルな現実の中での、誰かへの衝動的なイラつきや、
自分を含めた状況への嫌悪感にザワついた心に広がり、
まるで炎症を起こした患部に軟膏が擦り込まれたごとく、
ひんやりと心地よくしみこんで、自然な健やかさを取り戻してくれるのでした。


そして思うことといえば、
手に負えないほどの愚かさの中にも、小さく光り輝く宝石が隠されている、
ということです。

どんな愚かしい怒りにも、
どんな狂おしい欲望にも、
どんな寒々とした空虚さにも、
どんな胸を突く痛みにも、
その宝石が隠されていて、
そこには本当にいとおしい何かがある、ということです。


こんな風に書くと、その昔、私がカウンセラーになりますといったときに、
尊敬する恩師が言った言葉が頭をよぎります。
「きみは人間が好きなんだね」
いいえ、全然、そんなことはございません、
だって、私はいつも他人を恐れてきたし、いまだって、恐れ続けている
と、そのとき心でつぶやいた私の答えよりも、実は、その人は私の心を正確に見抜いていたのかもしれません。
やっぱり、そういうことなのでしょうか、先生。


そして、舞台はいきなりガラパゴスです。
今日のテレビでみたガラパゴス諸島のイグアナ君たちは、
なんだかやけに私に人間を思い出させるのです。
ひとかけらのサボテンを巡って、がるるるっつと欲望を露呈させ争う有様は、
私の頭の中で、人間同士の争いとも重なります。


ガラパゴス諸島は、生物の進化のありさまを垣間見れる場所として、ダーウィン
進化論の発祥の地とされています。
けれど、ゾウガメの甲羅が首を伸ばしやすい鞍型になっているのが進化の証拠といわれてもその現象は亜種への変化だけなので、他の生物種間での進化における継続性は直感的には感じにくいです。だから、当たり前のことながら所詮別の生き物だろうと思う反面、どこかやけに人間の姿と重なる部分を感じる、そのことが不思議にも面白いのです。


研究に生きることの喜びをかみ締め、追求してきたその人は、
名誉ある上級管理職に就いて研究畑を離れることになり、我がままで強欲で裏表があって利己的な行動に満ちた人間たちを相手にしなければならない日々を迎えたとき、失望の色を目に浮かべながら、
「これまで自分が愛してきた植物や犬や猫に接するように、人間にも接することができるようになればいいんだけれど」
といっていたことが思い出されます。


ううむ。
そうですね。
樹木にも、犬にも、猫にも、イグアナにもゾウガメにもウチワサボテンにも、
でも何か、人間と共通するものがあるのかもしれないですよ。
今夜は、そんなことを思った夜でした。