のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

自分で考えて動くということ

(ウコンザクラは、花の中央から周辺に向かって黄緑色から白へとグラデーションになっています。でも真っ白とまではいかないかな。そして、開花して時間が経つと中心部はピンクに染まってくるのです)

 最近、ツイッターで情報を得ることが多い。webマガジンの編集者やフリーのジャーナリストや、社会学者や哲学者や、ときに生物学者なんかの呟きから、ぜんぜん知らなかった情報が学べる。
 そのなかで、ふと、ルワンダの虐殺についての一連のツイッターを読んだ。

三浦英之記者の「殺せ」と叫ぶ人々は、やがて潮目が変われば本当に殺すだろう。

 それまで、隣人として一緒に日常を過ごしてきた人が、ある日を境に、虐殺者に変わる。それはまるで映画か小説の世界のようで、まさか「100日間で80万人が殺された」という現実が、この文明化された現代に起きるなんてありえないと思う。
 それはどこか、未開の地、野蛮な人々の集団でこそ起きたのだろうと考えてしまう。自分たちとは、遠く隔たった人たちの話だろうと。

 けれど、実際はそうではない。人種という、茫漠とした多様性のなかに恣意的な差異を創り上げる境界を定め、人々をグループ化し、隔絶する。恐怖と憎悪を煽り、燃え立たせることで、集団が歪んだ正義に取りつかれ、狂気と興奮のエネルギーに包まれると、もうそこから逃れられなくなる。
 もしかしたら、たった一人の執念深い復讐からそれは始まったのかもしれない。その小さな復讐心は、周囲にいた人々にもどこか心当たりがあって、あるいは、心当たりがあるように巧みに仕向けられていって、人々の間に伝染し、広まっていったのではないか。

 「殺せ」と叫ぶ人々が、やがて本当に人を殺すようになったときに、「殺せ」と叫ばなかった人々には、何ができたのだろう。
 「殺せ」と叫びながら人をあやめる人々に、「殺すな」と言って立ち向かうことができるのは誰なのだろう。そして、最初からただ沈黙していた人々にできるのは、沈黙し続けることしかないのだろうか。

 私は日々脆弱に生きているので、心の中でどんなに文句を言おうが、表だって叫ぶことはしてこなかった。「叫ぶ」という行為自体が、私のものではなかったので。
 でも何かが起きた時に、自分に何ができるのかを考えてみると、叫ぶことすらできない私に、いったい何ができるというのか・・・。
 窮鼠猫を噛む、とは言いますが、小さな前歯で猫のしっぽあたりを噛んだネズミは、そのあとどうなるのか。
 どうなるのかな・・・。