のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

天才数学者が考えること

 昔から、数学者というものに仄かな憧れがある。
 あと、哲学者にも。

 数学者については、「ビューティフル・マインド」という有名な映画もあるけど、「フェルマーの最終定理」(サイモン・シン著)という本が大変に素晴らしい。
 ここでは、数学の最難問といわれたフェルマーの最終定理に挑戦するあまたの数学者が描かれているが、その謎に立ち向かう人々の姿はどれも真摯で崇高で、しかもつぎつぎに登場する天才と呼ばれる優秀な人々の能力が一般の基準から離れていくほどに、その孤高の度合いも高まっていくのがなんともいえず、心ふるえるのだ。

 孤高の存在というのは、昔から私の理想であり、夢の象徴みたいなところがある。まぁ、自分の能力の程度はさておき、他の人との相違を感じていた(といっても、それだってたかが知れているのだけれど)けれども、私自身は、それであまり困ることもなく伸び伸びやってきた。しかし、(おそらく)研究者を辞めてカウンセリングの仕事を始めてから、人に対して「それは違う!」ということがストレスフルだと、おくればせながら気づいて以来、自分の能力一本で孤高に生きていける姿に、明確に憧れるのである。

 ぶっちゃけていえば、マジョリティを横目でみて、「ふ〜ん」と距離を置きたいにもかかわらず、マジョリティとは違う場所で、どう自分を生きたらわからなくなっている。
 研究者仲間の中にいても、何かしら自分は異分子、と思ってきたし、カウンセラー仲間のなかでも、どこか居心地が悪く、分かりあえないんじゃないかなと感じてきた。そこには、マジョリティというか、同質なコミュニティに背を向けたい天邪鬼な体質の自分と、同類他者を求める自分の、アンビバレントな矛盾があるのだ。
 そんなふうに揺れ動くからこそ、我が道をゆくスタンドアローンな人に強く惹かれるのだろうと思う。

 んで、そんななか、日本人数学者が「ABC予想」を証明したというニュースが話題になっている。「ABC予想」とカギかっこ付きで書いたのは、さっぱり何のことか知らないから。
 しかし、さきほどその件の数学者、望月新一さん本人のブログを発見した。
 そして、読んだ。

 意外にも、「逃げ恥」とか、「欅坂48」なんかで感銘を受けた話が書かれていて、とっつきやすく面白かった。そして、なによりその主たる主張が、ああ〜、そうなの、そこなのよ!と深く同意したい内容だったのだ。

 彼は、『異質な者同士の間に「壁」を設定することは重要ですが、一方で、その「壁」を通り抜ける力のある「心」も重要』ということを述べ、それを可能とするような「壁」と「心」をどう設定するかについてをテーマにして、数学の研究をしているということなのである。
 私自身が、自分とは異質なものでいっぱいの社会において、個人がどう、自分らしさを殺さずに、でも社会とも折り合って生きていくか、ということを過大にしてきているので、「なんですと!」と思ったのである。
 (ちなみに、私はあるときから「自分」を喪失し続けてきている感じがしている。同時に、「喪失」するほどの自分もないような気もするけど)

 うーんん、なんかもうさ、みんなそうなんだね、昨今。人文の今年話題の書籍もそうだしね。
 個性の時代、とかいって、人々の個々の生き方がクローズアップされて、「自分らしく」とか言っておきながら、その一方では、「他者のニーズ」に応える商業社会主義が実際の個人の生活を脅かしていってる。「忖度」なんてのもきっとそう。多様性とか社会の複雑さとかが増していくのと、相反する社会的な締め付けの厳しさに、だれもが「いったいどうしたら?」と思わずにいられなくなっているというか、もう一段上の解を求めているのかもしれない。

 で、改めて、彼のブログを読んで思うのは、私は失われた自分の欠片を取り戻したいというのが現在強くあるのだろう。それが、孤高の人に惹かれる理由でもある。望月さんは、世界のお見本と言いたいぐらいに自分を貫けてきた人だと思うので、その言説を読んでいるだけで、ああ私も自分の中の違和感、アレルギーにもっと目を向けて、じっくり向き合っていきたいと、つくづく思うのであった。。。