のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

切ない気持ち

昨日は、彼について、センチメンタルな気持ちを書いた。とても久々に自分の気持ちを綴ったので、改めて自分の気持ちの変化を感じることができた。


彼への激しい想いは、どういう風にして風化していくか。
風化した後も、なお残る切なさは、どういう気持ちの燃えかすなのか。
今日は、ぜんぜんセンチメンタルじゃなく、語りたいと思います。


語る、といっている割には単刀直入に書くけど、今感じる燃えかすは、あの頃からずっと変わらない切なさを核に持つ。
受け入れてもらえないかもしれない不安。
交じり合えない、別個の存在だと、心の奥で警鐘がなり続ける。
それらが、私を切なくする。
不安や警鐘は、彼の気持ちが分からないから起きるのではなく、どこかで分かっているから感じるのだ。
私は必死で湧き上がる切なさを振り払おうとした。より良いほうに考えることで、現実を変えようと努力した。現実そのものが、自分の意識によって成り立っているという、マーフィーに教えの実践を試みた。


けれど、切なさはずっとそこにあり続けた。
はじめからずっと。


いま、彼への情熱は、明らかにその温度を下げ、置き火よりももっと静かにここにある。けれど、そこから立ち上る煙の質は、依然と何も変わらない。あまりにかすかで、白く揺らめく姿が見えなくなった今も、目に入れば同じように染みわたる。


私の好きな彼は、彼、というひとつの別個の存在と同一ではなく、私が彼に投影した私の中の虚像であるという言い方がある。
それは正しい。
現実の世界でいくら彼が変化し遠くに行こうと、私の中の彼が私に投げかける切なさがいくら普段感じられないぐらい希薄になってしまっても、私の感じる彼は同じだという点からも、それは正しい気がする。


かくして、私は私の中に、同じ感情を抱え続ける。私を受け入れなかった彼が残していった(あるいは、はじめから自分で植えつけた)切なさを、変わらず抱え続ける。
それは、私の一部となり、私の自己不信にささげられた新たなトーテムポール郡の一部になっている。


感情の開放のテクニックとは、そのトーテムポールを切り倒すことなんだろうか。
過去を清算するとは、自分の中に聳え立つ何かを切り捨てることなんだろうか?
私がいまだに抱えているその不安と疑問は、解決までにもう少し時間が要るようだ。