のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

大安や仏滅なんか気にするな

大安や仏滅など、日よりを選ぶ人というのは今どのくらいいるものなのだろう?
私の、超クイック付け焼刃知識によると、この大安やら、仏滅やらとかは、六曜と呼ばれ、諸葛孔明が発明したと伝えられているが、後世のこじつけというのが定説だそうだ。他の占いと違い、もっとも根拠がないもの、と、あるサイトに書いてあった。

この仏滅やら大安やらを気にしてはいけない、アレは迷信だから、と私は中学校のころ、尊敬するお方に習った。結婚式は仏滅にしなさい、とまでその方はのたまった。

この、迷信だから、という一言はじつに単純明快で、実利的にも精神的に有難いお告げだった。
だって、様々なタイトなスケジュールや都合の合間を縫って、引越しやら結婚式やら葬式やらをしなきゃいけないのに、いちいち日よりがいいかどうかまで気にしていたら、とっても大変。
しかも、縁起がいい日が、万人にとって同じ日となったら、みんなの行動が集中し、極めて非効率ってもんである。

それからは、まーったく六曜による縁起を担いだことはほとんど無かった。
というか、意識したことも無かったのだ。

だがしかし、そんなわたしも天中殺の警告には従った。
この契約は、昨日に返答、今日は締結。
これは、私の天中殺と夫の天中殺の狭間を二日間を選んでなされたのである。

仏滅は迷信なのに、天中殺は迷信じゃない?
どうなんだろうね。ほんとに、中国四千年の歴史をもつ鬼谷算命学には、無知な現代人の想像をはるかに超えた宇宙の神秘が息づいているのかしら。

そうはいっても、それが当たっているかどうか、今の私にわかる術は何もない。
何もないながらも、算命学には従ってみようと思ったのである。

そう思ったとき、私にとっては、算命学が当たっているかどうかよりも重要な事実がもたらされた。それは、他の人の意見に従う謙虚な態度、である。
私がここで天中殺という(一見)曖昧な指示に従うのは、失敗したくないというような何かに対する執着故ではない。ただ、そういうなら従いましょう、というとてもニュートラルで素直な態度なのだ。自分でいうのもなんだけど、それは、ずっと昔には持っていたのに、世間の荒波にもまれているうち、いつのまにか失くしてしまった私の美徳のひとつだ。
誰もが子供のころ持っていて、生きている間に多くの人が失っていく美徳だ。

私は、何かに執着せずに、お任せする、という自然で無理のないスタンスを少しずつ取り戻しつつある。
そして、そのおかげで、なんとなく心が落ち着いているだろう。


で、なのに大安のことは気にしないのはどうしてか?
だって、大安は迷信だって習ったんだもん!!
気にすることが沢山ありすぎては身がもたないのである。