のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

届かない贖罪

 私の家には2人のおばあちゃんがいた。ひとりは、キミおばあちゃんといい、もう一人はイセおばあちゃんという。
 キミおばあちゃんはいつも、大勢の家族がにぎやかに集う6畳の茶の間のすみの方で壁にもたれかかるようにして座っていた。テレビの無遠慮な音や、子どもらのはしゃぐ騒々しい声のなか、透明な膜で隔てられているかのように、いつもただ黙ってそこにいた。
 キミおばあちゃんは、子供らをあまり構わない人だったが、イセおばあちゃんのほうは、何くれと子供たちの面倒を見てくれた。特に末っ子の私をかわいがってくれて、老人会の旅行に一緒についていってくれたり、物語を聞かせながら寝かしつけてくれたりもした。若いころの怪我の後遺症で背中が曲がっていることもあり、とても小柄だったけれど、自分で仕立てた着物で商売をしていて、普段から裁縫やら反物の整理やらで忙しくしていた。
 一方のキミおばあちゃんは、骨格ががっしりした大柄な人だったが、出かけることはほとんどなかった。口数が少なくて、何か言うとしたらそれは小言を言うときと相場が決まっていた。庭に咲く、色とりどりの松葉ボタンが無残にむしり取られていたときは、私がこっぴどく叱られた。その直前に、近所の子たちと一緒に、庭を走り回っていたからだ。私は、自分がやった覚えもないことで叱るおばあちゃんが嫌でたまらず、その理不尽さに腹を立てた。それから一層、近寄りがたい人のように感じた。
 
 学校から帰れば、イセおばあちゃんが今日はどんなことがあったのかと尋ねてくれる。私はひとしきり、光が射しこむ南向きの部屋で、縫物をするイセおばあちゃんとおしゃべりをした。
その部屋から廊下を挟んだ向こうの居間には、キミおばあちゃんが、やっぱり黙ったまま、壁にもたれて座っている。いつも、見るともなしに庭や空を眺めていた。
 居間の真ん中に掘りごたつがあったけれど、キミおばあちゃんが、そこに足を入れているところを見たことはない。家族みんなが集まれば、狭い6畳間はすぐにいっぱいになってしまう。さほど大きくない掘りごたつには、そもそも4辺しかないから、父、兄、姉、そして母と私で満員になってしまうのだ。それでも、キミおばあちゃんが居間にいたのは理由がある。
 イセおばあちゃんは、南に面した縁側からさんさんと光が射しこむ広い8畳間を与えられ、そこいつも縫い物をしていたのに対し、キミおばあちゃんには、仕事も居場所もなかった。自分にあてがわれたのは、北向きの、トイレの横の昼間でも暗く湿った部屋。好きな相撲を見れるのが居間だったというだけではなく、少しでも長く明るい部屋で外を見ていたかったのだろうと思う。

 キミおばあちゃんは、私にとって近寄りがたかっただけではなく、自らも家族と距離を置いた。夕飯時に家族全員で食卓を囲むときも、みんなと同じおかずは、ほとんど食べなかった。大体は、冷蔵庫にしまってある「なまり」と呼ばれるゆでた灰色の魚を出してきて、少しずつ大切に食べていった。
 それでも夏の暑い日には、「アイス、食べようか?」と、私を誘うことがあった。半分は、私にお使いをしてこさせる意味もあったのだろう。けれど、食べ物となれば子供はげんきんだ。百円を渡された私は、命じられた通りに、家の前の道路の向こうにあるタバコ屋さんに走った。おきみおばあちゃんが食べるのは、いつでも、カップに入った無色透明のかき氷と決まっていた。牛乳の豊かな香りも脂肪の溶けるまろやかさもないそれは、ちょっと味気なく感じるところもあったけれど、冷たく甘い水が喉を潤す美味しさはそれなりに魅惑的だった。
 キミおばちゃんは、扇風機のまえで肌襦袢の前を少しはだけたまま、ヒョウタンを長く伸ばしたような形の平らな木のさじで、かつかつと硬い氷の表面をつついた。その隣で、私も同じようにカップの中身をつつく。冷たい甘さが喉を通っていくさっぱりとした味わいは、何故か今もよく覚えている。

 私が庭で遊んでいると、おキミおばあちゃんが居間から出てくるのをよく目にした。自分が育てている植木を眺めたり、可愛がっている飼い猫の頭を撫でたりしてから、門の方に向かう。我が家の前は、駅前から北へと向かう太い片側二車線の道路で、つぎつぎに自動車が走り抜ける。キミおばあちゃんは、いつもその歩道の際までいって立ち止まり、手をうしろでに組み、少し体を傾けながら。道の遠くの方をじっと見ているのだ。あまりに熱心に眺めているので、誰かが来るのを待っているのかと思うぐらい。けれど、結局はいつも、家の方に戻ってくるだけだった。それを一日に何度も繰り返すので、はた目にも奇妙な行動に見えたのだろう。父からは、『みじめったらしいからやめろ!』と言われた。きみおばあちゃんは、恨めし気に、ただ黙って父を見返すだけで何も言わなかった。

 小学校の高学年になり、「ご先祖について調べる」という宿題が出た。なぜ、私は二人のおばあちゃんと暮らしているのか、ずっと訊く機会がなかった大いなる謎を解く機会が訪れた。じつは、父にも母にも別に実家と呼ばれる家があったのだ。お正月やお盆には、お線香をあげに両親の「実家」に行く。そこで手を合わせる仏壇には、"祖父母”の位牌があったし、父からはお爺さんの話もよく聞かされていた。じゃあ、イセおばあちゃんとキミおばあちゃんは、誰の母親なのか?
 父は、もったいらしく仏壇の奥から家系図を引っ張り出してきた。幾人かの名前と、人々をつなぐ縦と横の線に私は見入った。それによると、お伊勢おばあちゃんとおきみおばあちゃんは、2人きりの姉妹で、姉のお伊勢おばあちゃんのところには家を継ぐべく婿が来て結婚をした。その養子にもらわれてきたのが父、ということだった。けれど、妹であるきみおばあちゃんは、戦時中でもあったことから結婚の機会はなく、家から出ることはなかった。家系図でも、イセおばあちゃんは、夫と横につながり、息子である私の父と楯につながっていたが、キミおばあちゃんから出る線は、イセおばあちゃんとつながる一本だけで、ポツンと離れて描かれていた。

 お伊勢おばあちゃんには、いろいろな逸話があった。関東大震災がおきたとき、ちょうど東京に出かけていて1週間たっても帰らなかった。親族はもう生きてはいないだろうと、葬儀を始めたところに、ひょっこり帰ってきたというのが、いちばんイセおばあちゃんの豪胆さを表す話だ。けれど、おきみおばあちゃんの過去について、誰からもほとんど話を聴いたことがなかった。だから、どんな人生を送ってきたか、若いころ何をしていたか、何ひとつ知ることはなかった。 
 いまになって思う。キミおばあちゃんは、外に出たいと思ったことがあるのだろうか?
 いつも門の角に立って、ただどこかに続く道をいつまでも眺めていたキミおばあちゃん。自分の足で、出ていきたいと思っていたのか、それとも、ここから連れ去ってくれる誰かをずっと待っていたのだろうか。今になっては、知るすべは何もない。
 
 私が高校生の時、イセおばあちゃんが亡くなった。火葬場で、ステンレスの台に乗せられた遺体が、灰色の遺骨となって戻ってきたのを見た私はショックを受け、心ならず大声を上げて泣いてしまった。しばらくして泣きやんだけれど、体からすっかり力が抜けてしまって、何もしゃべれずにいた。そのとき、一緒にいたのはおきみおばあちゃんだった。畳の敷かれた控室で、多くの知り合いや親族がイセおばあちゃんの思い出話をしているなか、キミおばあちゃんは、ただ黙ってうつむいていた。近くに座った私も、一緒にうなだれていた。
 キミおばあちゃんは、イセおばあちゃんが亡くなって、寂しいとも、悲しいとも言わなかった。もしかしたら、キミおばあちゃんが出せなかった声の分まで、私が泣き叫んでいたのかもしれないと思ったのは、ずっとのちになってからのことだ。

 それから1年ほどで、おきみおばあちゃんも亡くなった。それまでほとんど何の病気もしたことがなかったにもかかわらず。
 大学に進学して家を出ていしまっていた私は、帰省した時に、寝込んでいたおきみおばあちゃんに、一度だけご飯を食べさせたことがある。私が、おかゆが食べたいか、漬物がいいかを尋ねると、キミおばあちゃんは、ただ尋ねられたままにうなづいた。私がぎこちない手つきで口元にスプーンを運ぶと、黙って食べ物を飲み込んだ。その時のキミおばあちゃんは、北側の暗い部屋ではなく、南側にあったイセおばあちゃんの隣の部屋、以前私が使っていた和室で寝るようになっていた。
 そのとき私は、愚かにもこれが自分なりの贖罪になると思っていた。障子越しに外の光が透ける中で、私はキミおばあちゃんの顔を覗き込んだ。生気のない瞳に、大したものは何も映っていなかった。

 夏になると、団扇で開いた胸元を仰ぎながら、東から入る風に身を任せていたきみおばあちゃんを思い出す。人生とは何だろうと思うとき、私がいつも考えるのは、活動的で付き合いが広かったイセおばあちゃんのことではなく、地味で目立たない、ただ、いつまでも道路のふちに立って遠くを眺めていた、あの口下手で不器用な命の方なのだ。
 ずっと我慢ばかりだったあの人の人生に、どんな喜びや安らぎがあったのだろうと、考える。ただ鈍感で無知な自分が、孤独の中にあの人を追いやるばかりになってしまっていたことについて、言いようのない後悔を覚えながら。そして、取り返せない時間の残酷さに、いたたまれない気持ちを感じながら。