のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

今日、おうちに人が来なさった。
そして、帰っていった。


人がいる間、私たちは延々と喋り続けていた上にラジオもついていたので、その後一人になってラジオまで消えていると、なんだか、部屋の中の物音が気になる。
私は、NLPで言うところの表層システムでは聴覚が優位で、うるさいところでは落ち
着かず、声が大きすぎる人もあまり得意ではない。
なので、部屋の中で誰もいないはずのところから何か物音が聞こえてきたりなんかすると、これはもう、すごく気になる。


なんだかさっきから、スースーっと何かこすれるような音がしている、様な気がする。
まるで、隣の部屋で、誰かが床でも掃いているような音。
私のほかには、誰もいないはずなのに。


物音といえば、その昔、本州で一番寒いといわれる北の街で暮らしていたことがある。
同じ様に家に一人でいた私は、ときおり、部屋の中で不審な物音を聞き、その場に凍りついて心臓をドクンドクンとさせていた。


その音は、部屋の隅のほうから聞こえる。
音を聞きつけた、と思って耳を澄ますと、静かになる。
気のせいかと思って、私が何かを始めた途端にまた聞こえる。
私に気づかれまいと、何かが身を潜めているかのよう。


その北の街は、私にとって、いつも静かに感じられる場所だった。
ずっと東京近郊で暮らしてきて、騒々しいのにわりに慣れていたせいか、
昼間の繁華街ですらしーんとしているその街では、いつもさびしい雰囲気を感じずにいられなかった。


『もし不審者が隠れていたら?』、そんなことを想像するのは、精神衛生上よろしくない。
絶対に誰もいない、いるわけない、という確信を心のたいまつのごとく振りかざし、
物音のするほうににじり寄っていく。
音のする先にあるのは、大きな冷蔵庫。
私は、音の正体を求めて、冷蔵庫の裏を覗き見る。


北の街全体を覆う無音の風を感じていたのは、もしかしたら、私だけだったのかも
知れないと思う。
なぜならそこは、大きな山が近くにそびえ、街の中心を鮭の上る川が流れ、まぶしい光に輝く鮮やかな緑がいっぱいの、とても美しい街だったのだから。
でも、私はその静けさに耐えられず、静けさを破る小さな物音にも怯えた。


冷蔵庫の裏をしみじみと見つめながら私は、不振な物音がすぐ間近で響くのが分かった。
機械が立てる無機質な音を、不規則で恣意的な物音に摩り替える自分の感覚それ自体にほんの少し感心しながら。


音の本質は、圧力の変化である。
私たちの感覚は、全て何かしらの「変化」を感じたものだという意義深い事実を考えると、どうやら私は、変化がないことに耐えられず、同時に、身の回りで起きる小さな変化に怯えているらしい。


音楽は、頭の中で作られる。
音楽が音楽足りうるのは、すばやく複雑な圧力の変化を耳で(あるいは体全体で)受け取り頭の中で統合された全体として構成するからだ。
そこに旋律や響きの形を与え、心震わせることは、純粋に聞く人の能力に依存している。
そこに何を感じるかも、
そこに何を見出すかも、
そこから何を、また新しく形作るかも、
全ては、その人自身にかかっている。