自分の大切な人が、理由はわからないけれど、とても落ち込んでいる。
悲しいのか、切ないのか、不安なのか、怖いのか、
支えがなくなったのか、望みが絶たれたのか、信頼を裏切られたのか、
私には分からない。
ただ、とても弱っている。
とても弱っていて辛そうだけれど、でも、私には何もできない。
それはそれで、ちょっと切ないけれど、でも安易に思い浮かぶ
「元気をだして」
という言葉を送りはしない。
少し昔のこと、私は、自分が自由を得るために、ある人を苦しめる言葉を
口にしようとしていた。
私がそれを言うことで、誰かを苦しめる、そのことが私には耐え難く、
最初は身動きができなかったけれど、
ふと、気づいたことがあった。
その人がもし、ひどく苦しむ羽目になったのが私のせいだとしても、
苦しむのは、彼の権利なのだと。
彼が、自分が望むように幸せになったり、誰かと笑いあったりする自由があるように、
誰かを恨んだり、絶望のふちに追い込まれたり、全てをあきらめたくなったり
する権利がある。
すべては、その人の自由なのだ。
そしてそれは、持つべき価値がある自由なのだ。
大きな苦しみが誰かを訪れたとき、
そこから這い上がってくる力を信じよう。
耐え難い出来事に打ちのめされたとき、
そこで得られる大きな贈り物をたたえよう。
それがもし、独りで不安なら、私が見守っていてあげる。
あなたがもっと大きくなって立ち上がるその姿を
見つめながら、待っている。