のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

根源的な悪と、平凡な悪

 日が過ぎるのが早い。久しぶりのブログを書いたのが、一昨日ぐらいに思っていたら、なんと1週間近くが経とうとしている。その間、何をしていたのかな〜? と考えてみても、特に思い出せない。
 しいて言えば、朝起きて、犬にご飯をやり、犬の散歩に行き、読書をし、仕事に行き、帰ってきて、犬にご飯をやり、犬と遊び、バイオリンを練習する。以上、みたいな。

 パターン化された日常は、人を愚鈍にする。 byけいこ

 さて、先日のブログの最後に、最近読んでいる「ゲンロン0」に出てきた、ハンナ・アーレントが気になっていると書いた。
 その著書の「人間の条件」が、私が応援しているところの近所の紀伊国屋書店に平積みになっていた。早速買ってきはみたものの、抽象的な難しい活字がぎっしり詰め込まれたブ厚い本なので、読み終えることができるか、大変心もとない。心もとないんだけど、珍しく著者名が私の心に刷り込まれていたのである。それで買ったわけなのだが、テレビを見ようとして、なぜ突然記憶力が良くなったのかの理由が分かった。
 撮り溜めた録画番組のなかに、「ハンナ・アーレント」という映画があったのだ。数か月前に録画したので、何度も何度も目にしていた。ハンナ・アーレントは、ハイデッガーの愛人だった過去もあるユダヤ人で、現代も高い評価を受けている高名な哲学者の1人、とは本で読んで知った情報だけれど、その彼女の映画があったんだー!
 その録画をしていたとは。自己の行為の意味も分からない頓珍漢だけど、グッジョブ、自分!

 そして、パターン化された日常のさなかに映画鑑賞をした。
 映画は、ナチス親衛隊の中佐で、何百万人もの人を強制収容所に移送する指揮をとった人物である、アイヒマンイスラエル諜報部に捉えられ、裁判をするところから始まる。第2次世界大戦中にナチスの迫害を逃れて、アメリカに渡ったハンナは、すでに哲学者として高い名声を得ていて、裁判の傍聴のために、久しぶりにイスラエルを訪れる。そして、何百万人ものユダヤ人の怨恨にさらされる裁判が、世界中に放送される様を見ながら、「悪」について考える。
 自分自身が、収容所に入れられ、人生を破壊された被害者側の身でありながら、アイヒマンという人間が犯した悪について、あくまでも冷徹に考えるのだ。自らのうちを今も苛み続ける複雑な感情を超えて、人間の何が真に極限的な悪をもたらすのかを、考えるのだ。

 彼女は、アイヒマンに「平凡さ」を見て取る。歴史上類を見ないほどの残虐さは、それまで予想していた「根源的な悪」によって生み出されたわけではない。ただそこにあったのは「命令に従っただけ」の、きわめて凡庸な人間だった。悪は、悪人によってつくられるのではなく、思考停止によってつくられる。

 人間ならば誰でも、思考停止の罠に落ちる。それは、被害者の側のユダヤ人も例外ではない。そして、迫害された側のユダヤ人にをも、加害者の責があると指摘した記事を書き、彼女は世界中から強烈に非難され、傲慢な人間として呪詛の対象にすらされてしまう。
 その構図は、当時(1970年代)における“炎上”そのものに見えて興味深かった。

 私にはそれは、自分が身に覚えのない罪をかぶせられることへの怒りにも思えた。けれど、「傲慢だ」とハンナを責めたてる人々が感じているのは、もっと感情的な憤りなのかもしれない。
 ひどく痛めつけられた人を労わる優しさはお前にないのか!というような。

 私自身は、人間は自らのうちの悪の発動の危険にもっと自覚的になるべきだという考えなのだけれど、客観的な考えの「正しさ」よりも、人間にとって大切な価値があると言いたい人々がきっといる。
 おそらく、「思いやり」とか、「愛」とか、「慈しみ」とか。

 それも大事だとは、私も思うのだけれど、ね。