のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

それが何であれ、「創造」の行為であるならば、尊い価値があると、私には思える。

 TV番組でミュシャ展について特集していた。パリでの華やかな人気を集めていた時代と、チェコに戻り孤独に画家としての使命に没頭していた時代。それぞれの時代に描かれた作品群は、彼の人生を明と暗に塗り分ているかのように、一方は幻想的で美しい魅惑に満ち、もう一方は平凡な民衆の困窮や葛藤が描かれている。
 美術展により一躍有名になった(そして私も今回初めて知った)、巨大な一連の絵画集であるスラブ叙事詩で、彼が何を表現しようとしたのかに番組はひとつの焦点を当てている。絵のモデルや描かれた構図などを、少しずつ紹介しながら、番組の最後ではミュシャが残した言葉を紹介されるのだ。
 「わたしは、これらの作品の中で血や戦いは一切描かなかった。私が描きたかったは破壊ではなく、創造を表現したかったからだ」
 意訳になっているかもしれないが、内容としてはそういった趣旨だったと思う。
 
 一人一人の民衆の、怒りとも苦悶とも限定しづらい、ただ身悶えするような強く訴えかけてくる眼も、疲れ切りただ呆然と四肢を投げ出し倒れ込む体も、「破壊」ではなく、創造なのだというのである。
 そこに描かれた人には、すべてモデルがいる。その表情や体にまとわりつく生き様ごと、彼が晩年、制作活動をしていた村の人々がモデルになって、生き写しにされたのだ。
 モデルとなった人々は、特別なところはない、ただ村の店やカフェに出入りをし、普通に生活をしている人たちだった。毎日の生活を積み重ね、彼らの日常を創り上げている人たち。
 
 であるならば、ミュシャは、人々が毎日の生活を送る、そのこと自体の中に創造の営みを見たのではないだろうか。いきること、それがすなわちcreationであり、本来は破壊ではないと言いたかったのではないだろうか。

 私は、自分が毎日の時間を送る中で、いったい何かを創造しているだろうかと自分に問いたくなる。むしろ、日々が無価値で無意味に見えるのは、焦燥感を感じずにいられないのは、何も創造できていないからなのではないかと感じるのだ。
 
 だから何かを描く、または、書く。何かしら言葉を紡げば、それが極めてささやかながらも、微細な創造の欠片に連なるのではないかとの期待を込めて。
 それが、血であっても、死であっても、絶望であっても、終焉であっても、描くことで創造の子宮に宿る。そうすれば必ずそこでは何かが育まれ、やがて産み落とされることになる。

 焦燥であれ、自己否定であれ、嫉妬であれ、逃避であれ、どんな醜悪さであれ。
 とにかく、書いて見ればいいのだ。