のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

AIが教えてくれるもの

 ブログを書くのは久しぶり。なんと、1か月あまりのご無沙汰ではないか。しみじみと、自分の怠惰さを実感する。

 といいながら、今日なぜかブログを書きたくなったのは、NHKスペシャルで、いま大注目の14歳、藤井聡太4段の特集を見たから。
 
 私は、以前から彼が、AIを相手に練習を重ねてきた、という話を聞いて、とても興味深く思っていた。AIによって、人間が考える定石や通常の思考回路とは違う方法を多く学んだことが、強さの秘密なのではないかと予想していたのだ。けれど、番組を見てみると、それは半分は当たっていたけれど、私が思うような単純な話では全然なかった。
 そもそも、将棋をぜんぜん知らない私が想像していたのは、「AIから学ぶ」ことで人が構築するようなやり方ではない戦術も、学べるだろうなーぐらいに、なんとなく思っていた。それは確かにその通りだったけれど、より具体的にいえば、AIは、人間がするよりも何十手と先読みをして勝利をもたらす手をより長期的に考えていける。そして、その先々を読んで判断する手を間違えない。
 そうした「やり方」に鍛えられた藤井君は、たしかに、そうしたAI戦術に匹敵する力を備えていて、終盤力の強さが特徴だというのだ。最初は、互角に戦っていて、ともすると相手の方が有利に見えていても、終わり近くになってぐいぐい攻めこんで勝ちに持ち込む。

 それは確かにAIらしい。頭の中で、これをこうすると、相手がこうきて、そうすると自分がこういって・・・・、と何十手も先まで予想をしていかないと、終盤での計算などできないのだから。けれど、それをこなせなければ、AIには勝てない。AIに勝つために、先々まで読む力は、AIを相手に対戦を繰り返すだけではなく、藤井君の得意な詰将棋でも学んだことらしい。

 しかし、それ以上に面白かったのは、藤井君の本領は「勝負師」の強さにあるということだった。
 新記録を打ち立てた29戦目では、相手は同じ十代同士で19歳の増田4段。お互いに、AIが示す最善の手により近い手をさし続けた2人だったが、よりミスの少ない藤井君が勝利した。けれど、その前の28戦目にこそ、藤井君の凄味は発揮されていたのだという(羽生名人談。なんたって私はただの聞きかじり)。
 連勝記録がかかっていたか、その日の藤井君はなぜか普段はしない幾つかのミスを重ねてしまい、百戦錬磨の澤田6段にどんどん付け入られた。AI判定による評価でも劣勢が明確な苦しい展開。けれどその追い込まれた場面で、起死回生の1手を放った。
 それはAIならば「悪手」と判断される、決してやってはならない1手。相手が落ち着いて、冷徹に対応するなら、何十手か先で自分が詰む。けれど、相手のほんのわずかな隙を突けるなら、勝ちを手にできるかもしれない、そういう大博打を打ったのだ。

 それは、相手が人間だからこそ絡め捕られる罠だった。しかも、澤田さんの残り持ち時間が1分。十分に時間があれば、避けられたはずのとらばさみを踏んでしまったのだ。
 本当の博打打は、ただ、運を味方にするだけじゃない。運がこちらに向くよう、周到な仕掛けができてこそついてくる結果なのだ。羽生名人は、追い込まれた状況から大勝負の賭けに出る豪胆さに感心し、渡辺竜王は、それを仕組む周到なタイミングに舌を巻くのだった。

 人間は、相手の心理を読みとり、わなを仕掛け、一気に形勢を逆転することもできる。そこには、あえてリスクを冒す、人間ならではの破滅的非合理性が潜んでいる。

 AI将棋は、過去20年間のプロ棋士による対戦、50万局を学習しし、"完璧”な将棋の指し方を学んでいるけれど、決してAIには指せない手があるという。どんなに攻めまくられて崖っぷちに追いやられても恐怖心なく、つねに一番「正しい手」を打ち続けるAIには、相手の焦りや疲労を狙い撃ちするような、高度な戦略は組めないのだ。
 その「純粋さ」ゆえに、AIには勝負師の気迫はなく、知力で勝る相手をねじ伏せる狡猾さもない。
 つまりは、つまらない存在、ということだ。
 だから、これは自明なのことかもしれないけれど、この人間社会において、人は、人に勝たなければ意味がないということだろう。

 棋士は、勝つことにこだわる。それは一体、誰に勝とうということか。期待、不安、迷い、苛立ち、恐怖、歓喜、つぎつぎに胸に去来するさまざまな感情の渦に、足元をすくわれそうになりながら戦ったその先には、誰と戦った勝利があるのか。

 対戦相手は自分の鏡で、相手がいなければ、自分の姿はきっと見えない。人間は常に、人と組み合って成長していく存在なのだということを、AIは私たちに教えてくれる。
 そして、AIと組み合うことで、私たちの戦いから何を得られるのかを、もしかしたら藤井君は教えてくれる、かもしれない。

 追伸:
 いま、「ゲンロン0」東浩紀著を読んでいる。ここには、私が35歳で、研究職を辞めた時から抱えてきた問いを解く試みがある、ようだ。自分の中の「人間」と「動物」をどう一つにしていくか問題。あるいは、爬虫類の脳と、哺乳類の脳と、人間の脳と、どう統合させるか、にも通じるかもしれない問題。
 (ちなみに、AIに代表されるテクノロジー一般は、「人間」の部分をスポイルし、「動物」の部分を助長させる方向に進んでいる。甘やかされれば能力は退化するから)
 解答にはまだ至ってないけれど、これまで読んだ中で出てきた思想でひとつ気になるのが「人間の条件」ハンナ・アーレント著の労働のとらえ方。これは、ざっくりいえば、金銭獲得のため、機械的な匿名性の高い作業的労働をこなしているだけでは、人間たりえない、という主張。人間たりえるためには、今風に言えば「やりがい」が必要ということになるのかもしれない。
 でもこの思想には、批判もあるらしい。詳しくは、本を読んでみたい、と思っている私なのであった。