のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

トビーのための追悼文

 今日で、トビーが逝って一年になる。
 つまり、一年前の今日、トビーはいってしまった。

 短い一年にも、長い一年にも感じる。短く感じるのは、きっと私の生活が、あれからほとんど変わりばえのないものだから。そして、長く感じるのは、この一年の間に、私の中の大きなものが失われ、空っぽになって、ひゅーっと風が吹き抜けて、そのあと、ぽっかり空いた穴の横に小さな獣が住み着いて大暴れしているから。
 小さな獣とは、新しい2代目わんこのことで、つまり、そのために毎日どったんばったん大騒ぎ、なわけだけれど、でもその横の穴は、一年たっても厳然としてあり続けている。

 失われたものが残していった穴は、時間が少しずつ埋めていくことはあっても、別の何かで塗りつぶされることはない。私は、今回、身近なものを失ってそれを初めて知った。


 私が14年間一緒に過ごした獣は、私の1/10ぐらいの体重しかなくて、私の一生の1/6ぐらいの寿命しかなくて、ちっちゃな脳みそで一生懸命考えることなんてほとんどお見通しで、面倒ばかりかかる生き物だった。
 けれど、トビーほど、私を真正面から飽きもせず見つめ続けてくる存在は、それまでの私の人生で他には誰もいなかった。だから、誰かと見つめ合うことを私はトビーによって学んだ。悲しくてわんわん泣いているのを、必死に慰めてもらったのも初めてだった。
 私が出かけるときは、全力で吠えて、行かないで!連れてって!と言い、帰ってきたときにはお尻ごと猛烈にしっぽを振って嬉しさを表現してた。そんなふうに、一片のためらいもなく、ストレートに私自身が求められたのも、初めてだった。

 なんだか、こう書いていると自分が、人間関係に欠陥がある人みたいに思えてくる。でも、きっと実際にそうだったのだ。表面だけで取り繕って、本音で誰かの気持ちに触れたことなんてなかった。それをトビーを通して学んだ。

 トビーは生き物だから、もちろん、良い面ばかりじゃなかった。盗み食いをされたり、体に良くないものを咥えて離さなかったり、ワンワン騒いでイライラさせられるのも日常茶飯事だった。
 そして、悪いことをして叱られると悪魔みたいな顔になった。いくら叱っても反抗してきて、羽交い絞めにしようとしたら指に牙を立てられた。強くぶってしまったこともあって、今もそれは、私の苦い苦い後悔だ。
 
 いま、トビーは私にとっての天使だったんじゃないかと思う。ああ、もちろん、猫だって、ハムスターだってそうなりうるのかもしれないけど。
 でもとにかく、トビーは私にとって、天使みたいな存在だった。私が一番苦しい時に、私のもとにやってきて、私の心が一番荒んでいた時期に一緒にいてくれて、私が少しずつ力を取り戻していくのをそばで見守ってくれた。

 トビー。君の病気が見つかってからの数か月、最後まで本当に良く付き合ってくれたね。私の悔いが残らないよう、君は私の看病に応えてくれた。けれど、それを長く引き伸ばし過ぎて負担になることもなかった。
 だから、最後の日々が近づき、君の浅い呼吸があまりに苦しそうで、私が「もう逝っていいんだよ」と言ったのを、君は、「やれやれ、ようやくか」とでも思いながら聴いていたんじゃないかな。だって君は、まるでその言葉を待っていたように、その翌日、入院してすぐに息を引き取ってしまったのだから。

 正直、私は君がちゃんと元気になって家に戻ってくると思っていたから、夫が帰ってきて一緒に病院に再度見舞いに行ったほんの数時間後に、君が逝ってしまうなんて信じられなかった。でも君は、すべてを計ったように、一切の面倒や手間をかけることなく、私たちが一緒に君を送ることができるよう、最善のタイミングでいったのだったね。
 
 君を病院で見舞った後、外は雨上がりの夕方で、空に虹が出ていた。きっと、その虹を君ははしゃぎながら全速力で駆けていったんだろう。オレンジ色の光が、君を導いてくれていたのであればいいなと思うよ。

 生きている人の記憶に刻まれている限り、その人(犬)の人生は消えることはないのだろう。犬のたましいは、人間とは違って死ぬと犬の集合体に還るという。その説に従えば、トビーもいまは、トビー個体のたましいではなくなっているのかもしれない。けれど、その記憶は私と共にあって、まだ失われてはいない。むしろ、私の中に、トビーが埋め込まれているみたいなものだ。

 犬のじんせいと、人のじんせいもまた、交差し、溶け合い、ともに在る。