のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

とある人へのメール

前回お会いしてから、また少し時間が経っておりますが、
お元気ですか?

私は、大学が夏休みとなり、かなりヒマな日々を送っています。ヒマになると、何とも自責の念が強くなるなぁとつくづく感じます。
以前、相談事業をやっていたときも、
「悩むヒマがあるから悩みが深くなるのよね!」と仲間内で話し合っていたことを思い出します。

しかし一方で、そうやって「あれこれ悩むヒマ」を焦がれる気持ちがあるのが、私のしょうもないところなのかもしれません。

で、今回もとつぜん一方的なメールでごめんなさいなのですが、あれこれ悩んでいることを、聴いてほしくて書いてます。以下、一方的な呟きなので、それこそ空いた時間で気が向いたら読んでいただければ幸いです。

そもそも、以前私がいった
「子供を産んだ女性は母になるけど、生まなかった女性は
何になるのか?」という疑問からことは始まります。
あなたがそこに反応して下さったので、それでいい気になって、その後もこの疑問について時々考えているのです。

でも考えてみると、この「疑問」は適切な疑問、つまり考える価値がある疑問なのかしら?とも思うわけです。
もともとこの疑問は、単に私が、世の中では「母になる」ことへの多大な意味づけがなされているので、母になれない私は一生涯未熟なままなのかーー、という劣等感と諦めとがミックスされてできた無力感(?)
に少しでも抵抗したくて提起した疑問でした。

その背景にあるのは、女性にとっての「母になる」ことへの「崇高さ」です。
子どもを産んで育ててはじめて一人前とか、人間として大きく成長できるとかいうことを、誰もが声だかに言う。言わない人もいるけど、社会常識的にあまりにその声は強くて、「女性の選択の自由」とか言ってもそれは、仕事その他での、「子ども」の代わりの何かの創造をなした人の発言としてのみ有効みたいに、見えてしまうのです。

うん、いろいろ反論の仕方はきっとあると思うんですけど、そして、母になった人がすべて大きく成長しているわけでもないんじゃないという理性的な声も自分の中にはあるんです。
けれど、少なくとも、子どもがいたら、「私は人生で何もしなかったけれど、最低限、子どもを産み育てることだけはやった」と言い訳できそうなのが羨ましいのでしょうね。
だから、せめて何かほかの、自分自身で納得できる答えを見つけたくて、提示した疑問だったのかなと思います。

何かここまでがすでにすごく長くなってしまいました。
ほんと、無駄が多くてごめんなさい。

で、ちょっと話は飛びますが、これは大きく見てみると、つまりは常識的、社会的価値観のなかで、どう自分だけの意思とか、願望とか、欲求とかを実現していけばいいのか?という、私の別の積年の悩みと共通した根っこが
あるんじゃないかと思いました。
私の積年の悩み、というのは、簡単に言うと、私は昔から作家になりたい!
という願望を持ってきたけれど、そんなの社会の何の役にも立たない、それより
もっと恵まれない人や困っている人のために働くべきじゃないの!?という
自らへの叱責みたいなものもあり、葛藤してきたわけです。

とはいっても、社会の役に立つとか、社会人としての責務を果たすとかは、自分が好きなこととも両立できるはずなので、個人的な力量の問題だなぁと今は思ったりもしてます。
ただしかし、自分がやりたいこと=自分の率直な欲求に従って生きるか、社会規範や社会常識、あるいは他者からの評価を重んじる生き方を選ぶか、という二項対立は、何だかいろんな人が抱えている悩みに思えてきたのです。
自分の仕事にやりがいが見いだせないとか、今の仕事は本当にやりたい仕事じゃないとかも、その例みたいな感じに。

そんな折、最近読んでいる本は、私のこの疑問と重なる点が多々あるように感じます。

たとえば、東浩紀さんの「ゲンロン0−観光客の哲学―」という本は、近代民主主義の礎を作ったルソーさんが、人間嫌いで「社会」を嫌っていたくせになぜか人は「共同体の意思」に従うべきと言った、そこにありそうな矛盾はどう乗り越えられるのか、ということが語られています。

安田登さんの「論語を読み解く」という本は、孔子論語を書いたのは、人に個別の「心」が生まれて間もない時期のことであり、それ以前は、
「命(運命とか、天命とかの意)」かなかった。そのなかで、その「命」を自分で変えられる「心」が、どう働くことができるかを説いた教えとして読み解こうというものです。

また、國分功一郎さんの「中動態の世界」という本は、まだ未読ですが、今の言語体系は、意思が前提となる「能動態」と、受け身としての「受動態」に大きく2分されていて、それが今の社会の行動の分類にも反映されているようだけれど、そもそも、古代には「中動態」というものがあった。
で、それは、受動態を含むもっと大きな概念で、それによると「する」「される」という対立がなくなり、責任や意思の在り方も大きく違ってくるというような話らしいです。

えーとー、えーと、だんだん書きたいことが混とんとしてきました。

本来、上記3つの本は、ちょっとずつ違うことを言っているんですよね。ただ、昔みたいに「人はこう生きるべき」みたいな私たちを縛っていた人生の既定路線、というか誰でも共有できる「目標」が無くなってしまった現代に、退治せざるを得ない問題意識がその根本にあるのかな、とも思います。

凄く正直なことを言うと、私、よわい50にもなり、いまさらですが、人生で成し遂げたと言えることがない"なんっにも!"という現実を思うにつけ、自分の未熟さと無能さと怠惰さへの劣等感で、手脚をジタバタしたくなることしばしばなのです。
だから、そのいかんともしがたい気持ちを、何とか払拭できるようなこと、何をどうしたらいいかを知りたいんですね。。。(遠い目・・・)

また、本を読んで考えて、何か出てきたら、メールしますね。