最近、在宅勤務の日が増えたので、ゆったり起きて犬の散歩に行く。うちの愛犬は、ウォーキング派ではなく熱烈な匂い嗅ぎ派なので、道端の草や土に鼻をフンフン摺りつけてばかりで、なかなか先に進まない。仕方なく、ちょっとは歩く気になるらしい、公園まで犬を運ぶ。
公園の入り口で犬を放つが、すぐには犬は動かない。疑り深そうに私をじっと見つめたままだ。小さな声で犬をなだめすかして歩かせようとする私と、強固に四肢を踏ん張る犬を、駅に向かうたくさんの人が次々に追い抜いていく。大体は我々になどは目もくれないのだけれど、なかには犬に目配せをしたり、大変だねぇという理解ある(?)視線を送ってくれる人もいる。
「フフ、歩きたくないの~?」
そうやって話しかけてくれる人の多くは、犬好きのおばさまだ。近寄ってきて、犬を撫でてくれる人もいる。自分も犬を飼っていたんだけどね、亡くなっちゃったのよ、14歳でね病気になっちゃって。そうですか、それは淋しいですね・・・。
しばらく犬を撫でて、気が済むとそのおばさまは去っていく。
淋しいって言ってよかったのかな、と私はしばらく考える。「さびしい」という言葉が、おばさまの心にぽっかりと空いた、目に見えない欠乏感に輪郭を与えてしまったような気がするのだ。
こんなことを考えていると、散歩中に人と話すのはちょっとおっくうになるのだけれど、犬にとっては知らない人に撫でられるのは歓喜以外の何物でもないらしい。そのあと犬は、やる気満々になって足取りも軽く歩き出す。
草の匂い、人との出会い、鳥のさえずり。
気づけば、犬はずんずんと突き進み、私は引っ張られるようにして後に付き従うのだった。