のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

医学分野の確率統計

最近、とみに西洋医学への信頼感をなくしている。がらがら音を立てて崩れていく、とまではいわないけれど、風がさらさらと砂の城の輪郭を失わせていくぐらいには、信用が置けないと思いつつある。(後者もけっこうなものですが)

この前ともだちがやってきて、不整脈の話をしていった。心室頻脈。それは結構危険な不整脈の種類で、6割の人が何らかの深刻な心臓疾患が引き起こされる(たぶん、よ、てきとーよ、ここら辺の割合の話は。又聞きだから)とのことだった。

そういう風に聞くと、多分、不整脈を持つ多くの人は、明日のお天気が雨になるのが6割であるように、私が危険な病気になる確率も6割なんだ、と思うことだろう。10回、私が人生を送ればそのうちの4回は問題ないけど、6回は死んじゃうかもしれないような、少し弾丸が多いロシアンルーレットっていうことなんでしょう?と。

だがしかし、本当にそうだろうか?
そういう意味での画一化された母集団を基にした確率なのかそれは?

私は職業柄植物を育てる実験をしていた。たとえば、全く同じ環境においたつもりで、ひとつだけ環境を変えた二つのグループの成長を比較する。けれど、一点を除いて全く同じ環境を作る、同じ状況を再現する、というのはそう簡単じゃない。だから、同じグループの中でも成長量にはばらつきがあり、また当然それはもともと個体がもつポテンシャルにも由来する。
それでも、そういうときに実験に用いる植物の遺伝的な均一性は高い。人間グループのの比ではない。正確に、遺伝子の何パーセントのオーダーで一致するかまでは知らないが、単純に考えて、私が「ばらつきがあってこまるー」と思っていた植物たちは、人間で言う兄弟ぐらいには遺伝的に類似していたはずだ。どんなに悪くても、一族、ぐらいには近かっただろう。

それに対して、ある病気への反応などを見るときなどの調査対象となる人間の遺伝的な多様性は極めて大きい。その極めてばらばらな人々を集めて、60%の確率で重大な病気につながります、といった場合にはいかほどの意味があるのだろうか?

医師がどういう意識で人々を診療しているのか、私は良く知らない。それこそ、医師によって考え方も千差万別に違いないだろう。とはいえ、その対象となる個人個人は、独立した遺伝子を持つ極めてユニークな存在である以上、6割の確率、というのはそれを扱う医師側の事情でまとめた数字に過ぎないんじゃないかという気がしてくる。

つまり、全く別の品種の植物をごっちゃにして比較しているような感じとでも言おうか。像とねずみを一緒にしないだけまし、とでもいおうか。
そのぐらい、人間によって、起きる反応はまちまちかもしれないのだ。
体よく纏め上げられた6割という数字の中に、このまちまちさ加減が埋没し、個々人が本来持つユニークさや、そこから生まれるはずの個々人の可能性を、お医者さんが握りつぶしてしまわないように、そう私は切に願うのであった。