のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

幸せな誤解

その昔、私が尊敬するある人は言った。
「人間関係は全て誤解の産物なんだよ」
当時から今に至るまで、一貫してその人を尊敬し続けている私はそのとき、
「そうなのか〜、この人が言うんだから、多分そうなんだろう〜」
と、極めて素直かつ純粋に受け止めた。


私の素直な顕在意識は、砂に水がしみこむときのように、その言葉を素直に受け入れ、同時に私の潜在意識にまで行き渡った、のじゃないかと思う。


自分の目の前にいる人がどんな性格かだとか、
何かを計算しているかだとか、
本当は誰を好きで誰が嫌いかだとか、
その言動の裏には何があるかだとか、
そういうことを考えるのが、私はもともと苦手なのだ。


周辺の情報を集めて、
本人の言動に照らし合わせて、
データを集めて総合的に解釈して、
そして、類推というリスキーなスパイスを効かせて相手を「判断」して生まれるのは、
限りなく「誤解」に近いのかもしれない。


最近、いろんな人に会い、いろんな話を聞く。
昨日あった人と、今日あった人は、過去のどこかで同じ現場にいて、同じ経験を共有している。でも、ある人にとっての出来事は、別の人にとっては全く違う出来事として体験されている。
「食い違った」話を聞いたとしても、その人々の顔を見ていると、それぞれが「真実」を述べているように見えてならない。
どちらも、自分のみえる世界を信じて、それを語っているに過ぎないような気がしてくるのだ。だからたぶん、そこには数知れない「事実」という名の誤解が隠されているのかもしれない。


人は誰でも、自分が見たいように世界を見る。
自分が聞きたいように、言葉に解釈を与え、
自分が感じたいように、その気持ちを感じ取る。
だから時々人々は、自分のどこかでうそだと分かっている「うそ」でさえも、「真実」だと認め始めてしまうのだ。


ある人にとって、とても非道で冷たい人が、他の誰かにとってはとても心優しいいい人だったりする。人間的に問題があるといわれる人が、別の人からは絶大な信頼を寄せられている。
世の中では、そんな関係がごく当たり前に、あちこちに転がっている。


「全てが誤解なんだから、自分にとって良いように誤解すればいいんだよ」
その人の言葉は、そんな風に続いた。


私たちは、限られた五感と切ないほど狭量な感じ方の癖によって、日々、誤解を繰り返す。
けれどもしどうせ誤解するしかないのなら、できるだけ幸せな誤解をしよう。
どうせ私たちの見るもの全てが、ただ心のスクリーンに映った光の粒に過ぎないのなら、せめて美しい光を見よう。