のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

尊重されること

温和であることを、自らの長所として長年暮らしてきた私であるが、最近、とある相手には何故かよく「かちん!」と来ることがある。


しかも、その相手を「ムカッ!」とさせることも多い。


なんちゅーか、もう、これは出会った相手がそういう相性?みたいな感じで半分あきらめ気分なのだが、私なりに自己成長を求めていきたいところでもある。


その相手を、本日またも怒らせ、
「尊重されていないように感じる!」
といわれてしまった。


そんなことないんだけどな〜。
(これまでの経験をかなり踏襲して)相当気を遣ってしゃべっているつもりなのにな〜。
なんで怒られちゃったかな〜。
と、思いながら、その原因を探ってみた。


「尊重されていない」ことは確かに誰にとっても悲しいことだ。
そしたら例えば私ならどんなときに「尊重されていない」と思うだろうか?
どんなときに、相手に対して「かちん!」と思ってきただろうか?
う〜ん、う〜ん。


・・・・ピーン!
出ました。


どうやら、例えば私の場合、何しろ根が大変ウェットにできているので、情に訴えたときにその感情が理論的に一刀両断されると相当ダメージが大きい。
でもよく考えると、相手はそんなにウェットに生きてない。
私が感情的なうお座さんでも、
相手は頭脳明晰なおひつじ座さんかも知れず、
あるいは、
ライトに生きるふたご座さんかも知れないのだ。
(これは、例えです。太陽星座だけでは判断できません、念のため)


かくして、私にとって大切なことが、相手にとってはあまり重要視されてない、
あるいは逆に、
相手にとって重要なことが、私にとってはあまり重みがない、
ということを知らされたとき、「尊重されていない」と感じることがある。
まぁ、一言で言ってしまうと、
それは無意識レベルに張り付いている志向の違いというか、価値観の違いというか、なのだけれど。


・・・あまりに今更で簡単な答えで恐縮です。
でも!
私が(ある種)重要視していないことを、
相手がとても大事にしていたりする(逆も含め)、
という状況からうまれる衝突というのは、避けるのがほんとに難しい。


だって、配慮しようにもねぇ、とりあえず、自分のやり方で配慮しようとするじゃないですか。
それは例えば、自分が使ってきたおシャモジを奪われて、お箸5本ぐらいでご飯を盛るように言われたようなものです。


全然、ふさわしい例えじゃなくてすみません。


でもいいたことは、自分が無意識にやってきたやり方に修正を加えなければならない、ということであって、それは、使い慣れてきた道具を変えることにも等しい、ということなのだ。



NLPならば、ここで柔軟性、とかなんとか言いそうなところだけど、自分が軽んじてきたことをいきなり凄く重んじるのは、単なる柔軟性の発揮だけでは難しい。
無意識に見過ごしてきたことに、改めて光をあてなければならないのだから。


これこそ、まさに相性!
とか思うんだけれども、それだと進展がないので、初歩に戻ってNLP本でも書かれている学習の流れを、思い出して実践しようと思う。


(参考までに)
学習の流れ:
1.無意識の無能力
2.意識の無能力
3.意識の有能力
4.無意識の有能力


1が、切り株を見るとすぐに座りたくなる切り株座りマニアが、目の前にあった切り株がご神体だとは全く知らずに座っちゃって怒られる、としましょう。
「しらなかったよぉ〜〜」、という状態です。


2は、ああ、切り株がご神体になっていることもあるんだ〜、気をつけなくっちゃと思い、気をつけようとするけれど、どれがご神体で、どれがご神体じゃないかがさっぱり分からない切り株の森。
ああ、でも切り株を見ると座りたい〜〜、ああ、でも座ったら怒られる〜〜、という苦しい過程です。
(大体、切り株座りマニアって、実在するんですか?)


3は、何度も怒られながら注意深く見ているうちに、ご神体の切り株には、綱が巻き付いている!ということに気づき、綱を発見したら、座りたい!という衝動を抑えて座らないようにする、というレベルです。
(ていうか、早く気づけよって感じです)


そして、4ともなると、綱を見ると無意識にその切り株をよけられるようになる、という過程ですね。
(よかったねー!\^0^/)


かように、通常、何か新しいことを学ぶときは、1から始まるのです。


これは分かる。
でも、今私が遭遇している問題は、
これまでずっと綱があればご神体、と思ってよけてきたのを、
突然、綱がなくてもご神体じゃ〜、と言われたようなものなのだ。


そうすると、4の状態から2の状態に突き落とされる。
有能、だと思っていた状態が、実は無能。
これまでは問題なくやれていたという経験つきの自信があるだけに、その過去の「無意識の有能力」は、かえって大きな足かせになる。
いきなり太さ45cm以上はご神体。当たり前でしょ!と言われても、それは今までの「当たり前」と、違う「当たり前」です、と言いたくなる。


けれども、そこから学習する過程は、ゼロから始めるのとそうは変わらないのかもしれない。
ただ、有能力だと信じてきたために(別の場面ではそうだった)、学習しなおすコト自体に抵抗を感じるだけなのだろう。


尊重することの難しさを感じつつ・・・。
日々、自分の学習能力が試される、刺激的な毎日です。
(なんて、この克明な内容についてまた怒られたらどうしよう〜、びくびく・・・)


追記:
ところで、自分が「怒り」などの感情を感じる場合は、大体相手に自分の弱点を刺激する何かが隠されているからであり、そこから自分自身の成長すべき点が見出されるけれど、相手の「怒り」は相手のものなので、それにいちいち振り回される必要はない、という説もある。
あるねぇ。
ということは、そんなとき私が真に学ぶべきは、「相手の反応にいちいち振り回されない」ことでもあるのかもしれず、それは確かに、私にとって大きな意味があるかもっぽい。