のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

楽しいプレゼン

さいきん、私はNLプラクティショナーコースの再受講をしております。


今日は、そのセミナーでNLPについて説明する、というテーマでの
プレゼンテーションがありました。


多分、もともとの傾向なのかもしれませんが、、
最近、(ある部分で)どんどん「常識的な型」から外れていく自分を
感じています。


これが解放というものかしら?


と、人前で楽しく演じている自分を客観的に眺めながら思うこのごろです。


昔、大学生のころ、「レディース農業」という飲み会ネタを友人に強要されてやっていました。
まだ、初々しく、思春期の恥じらいを全身にまとっていた私は、
とてもとても、ええ、
とてもとても!
あんなのや、こんなのの振る舞いが恥ずかしく
(映像でお見せできないのが残念です。
というか、お見せしてもらいたくないですか、そうですか)
ただひたすら俯いたまま、決められた一連の動きを耐え忍んでおりました。


まぁ、あれは今でも恥ずかしくはありますが。


それはともかく、そんなのであれ、ふつうのであれ、多くの人前で何かをするというのは、
恥ずかしかったり、緊張したりするものです。
また新入社員研修のときに、200人以上いる新入社員の前で朝っぱらから
いきなり指名を受け、3分間スピーチというのをやらされたこともあり、
しゃべっているあいだ中、脚ががくがく震え、倒れるかと思うほど緊張した記憶があります。
(その後、友人が「落ち着いてしゃべれてすごいねー」、と
言ってきたのには、ある種、スピーチよりも体の安定を失わさせられましたが)


それでも、学会発表と言うのを何度もやる経験を経て、
プレゼンは準備さえちゃんとすれば、あがらずにやれる、と言うまでにはなりました。


けれど、NLPを勉強し始めてからは、準備をする、ということも
許されない状況に陥れられるようになりました。
ちゃんとした原稿もなく、下手したら本当にアドリブでしゃべらなければならいプレゼン。
こうなると本当に、人前でしゃべる、ことへの恐怖や緊張を克服する必要がでてきます。


そうしたなかで、最近だんだんと、人前でしゃべるのを「楽しむ」ということを学び
つつあるような気がします。


今日は、明らかにプレゼン(といっていいのかどうか、ってぐらいふざけたプレゼンですが・・・)
を楽しむことができました。
そして、プレゼンが終わったあと、緊張しなくなくなった自分を見つけ、
その理由を探るともなく探ってみました。


そして、私なりに達した一つの結論はと言うと・・・
それは、
ここしばらくの間に、色んな人の口から、私のもとに届けられた幾つものメッセージが、
集約される形で腑に落ちたものです。


緊張しているとき、それは、失敗して批判的な評価を下されるかもしれないことが怖いのです。
恥ずかしいのは、それは、相手から笑われ、バカにされるかもしれないのが不安なのです。
けれど、
何度も慈愛に満ちた言葉を受け取り、
暖かなまなざしと心地よい拍手に包まれれば、
やがて、その恐怖や不安が消えていきます。


結局、少なくとも私の場合、緊張しなくなるためには
他者に受け入れられる、という経験が必要だったみたいなのです。
そのとき、目の前に並んだ人々に受け入れられる安心感を得て初めて、
自分が楽しむ、という余裕が生まれてくるらしいのです。
それは、もしかしたら人々が「慣れ」と表現している、その裏に隠された真実
だったりするのじゃないかと思います。



私の友人は、
NLPのコースで得た重要なことの一つに、
自己重要感、というのを挙げてくれました。
もう、何度目かの気づきでしょう、ってぐらい基本的なことで、
一体、何度気づけば身につくのか、
遠く夜空で輝くお星様に思いを馳せたくなりますが、
つまりはそういうことです。


はづかしい飲み会芸をさせられていたときの私は、
目の前の『観客』なんか目に入っていませんでした。
自分の体の中に渦巻く羞恥心だけを感じ、
頭の中に浮かぶ、無様な格好の自分のイメージしか見ていませんでした。
本当は、あのときも眼前には明るい笑顔が並んでいて、
陽気で楽しげな笑い声が聞こえていたかもしれないのに。


私たちが見ている映画には、
ときおり、恐ろしい怪物や、冷酷な悪魔なんかが出てきて、
そんなときには
両目を閉じて、両耳を塞いで、体を硬直させてやり過ごそうとしたりするけれど、
ずーっと何も見ないまま、聞かないまま、緊張したままでいつづけたら、
怖いシーンが過ぎ去ったことにも気づけずに、
ただ頭の中で想像した怪物から逃げ惑いつづけることになるのかもしれません。


エンドロールが流れるころに目を開けて、
せっかくの映画を楽しむには遅すぎる、
なんてことにならないために、
今、自分の外に目をむけ、
耳を済ませてみることが必要なのかもしれません。