『心の誓い』には、凝縮された心的エネルギーが籠められるに違いない。
800字書くと決めたその翌日から、私の頭の中には、いくつかの文章の書きだしが浮かんでは消えて行った。たとえば、「その飼い犬の名は、タケルという。犬のネーミングに苦慮した飼い主が、古来の権威を頼って手近にあった日本の神様カードをエイッと一枚引いたのだ。そこで出てきたのが、ヤマトタケルノミコト・・・」
けれど、今現在、すでに日付は変わっている。新しい800字が生まれるべき昨日は過ぎ去ってしまった。何とか帳尻を合わせるため、新しい日の時間を侵食している。
というのも私は、24日(金)24時が視聴期限となるニコニコ動画の放送を見なければならなかったのだ。
それは、石田英敬×東浩之による「一般文字学は可能か――記号論と脳科学の新しい展開」という内容のもので、フロイトやライプニッツから連なる(正確には、ラスコーの壁画から連なる)脳神経科学や情報科学の視点から現代における記号論の意味を問い直し、現代の人間を理解するための新たな定義づけをするという、自分でも書いていて合っているのかいないのかよく分からない、難解で壮大、かつスリリングで驚異的、しかも現代の人間への鋭い警鐘につながる、面白さだった。
ここで手短かつ正確に纏められるだけの理解力や文章力が無いのが残念なのだけれど、覚書として、今日の話で重要だったのは、本来フロイトは、神経学者であり、当時隆盛を極めつつあった脳機能の局所論をベースにした考えではなく、人間の心で起きるイメージや無意識なんかを、ニューロンの連合(ネットワーク)で構築される心的装置の理論で説明しようとしていたことをかいておこう。
そうした神経科学の記述を”カッコ書き”にして(つまり、明示的に書くことはせず)、無意識を中心とした局所論などの心のモデルを提示し、精神分析を切り拓いていったのが1900年。以来、精神分析は実証的なアプローチができない、閉じた心の問題になっていってしまった。
けれど、本来フロイトは、神経科学の分野から脳で起きている心の構造を明らかにしようとしていたのであり、その後、局所的な脳への理解を推し進めるテクノロジーと、人間というものを理解しようとする人文科学が乖離していってしまった、という話なんじゃないかなと、思います(気弱なときは敬語になる)
フッサールとか、デリダとか、エーコとか、ハイデガーとか、良く分かってないけど聞いたことだけはある名前がたくさん出てきた。読みたい本がまた増えてしまったのであった。
明日仕事で早いので、あまり意味のあることが書けなくてすんません。ただ、スティグレールさんという哲学者は、5年間監獄に入り、そこでたくさん勉強をし、監獄を出て最初にデリダに会いにいったという。今や、大学教授でも忙しすぎて(夫を見るとよく分かる。。。)、考える時間がない。
石田さんは、監獄っていうのは学ぶ場所として素晴らしいところと言った。けれど、でもそれは昔の監獄はそうだったのであって、今は違うらしいです。ただ、勉強する時間がたっぷり持てる、何の邪魔もされずに深く学び思索を巡らせるというのは、ある種私の深くあこがれところである。
タイトル再掲:
無意識は、言語のようには構造化されていない。
無意識は、シネマトグラフのように構造化されている。
とつながるようです。(石田先生のことば)
今日は、意味をつかみづらい日記でした。本読んだらもっとちゃんと書きたいと思います。ではでは。