今、私たちの世界には、さまざまな国や民族というものがあり、それぞれ違う文化を持ち、違う言語を持っている。
言葉の壁があり、その壁は時に高く、時に厚い。
互いに分かり合うことは、そう簡単なことではないと、私たちは考える。
けれど、火星人的視点からみれば、地球人はみんな同じ言葉をしゃべっているそうなのだ。音声という視点からも、文字という視点からも共通した構造を持っていて、地球にある百数十の言語はすべて、ひとつの言語から派生していることが、明らかになってきている。
それは、同じ祖先と同じ言葉を共通のルーツに持ちながら、長い時間をかけて、互いに遠く離れ、間に壁を作ってきたということだ。本来さして違わない間柄なのに、お互いが違い合うことを求めてきたということだ。
私たちはいつだって、自分に対しては相手と違うことを求め、相手に対しては自分と同じであることを求めている。
夜中に犬を連れて、階下にごみを捨てに行った。
人気のないエントランスで部屋に戻るエレベータを待っていると、同じマンションの住人らしき人が帰ってくる。不思議なことに、相手から私は見えないらしい。こちらをちらりとも見ず、挨拶をしても返答はない。2人ともに黙ってエレベーターの箱の中を映し出す小さな画面を見つめている。ただ、私の腕の中の犬だけは、その人を見つめ続け、パタパタとしっぽを振り続けている。
犬だけは知っているのかもしれない。
私と見知らぬ人を隔てる、言葉の壁、意識の壁、思考の壁などすべてが本来は存在しないことを。