のんびりライフの鳩日記

日常の、あれこれ感じたことなどをつづります。(不定期更新)

読書日記 「言論統制」

 今日は、すっかり忘れていた、読書日記を書こう。
といっても、読書日記を書こうとしていたことを思い出したからではなく、本を読むと何かしら書きたいことがでてくるんである。

 てなわけで、現在読んでいるのが、

言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家 (中公新書)

言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家 (中公新書)

である。
 まだ、中国SFアンソロジーが読みかけなのだけれど、図書館で予約していたのが準備できたと言われたので借りてきたのだ。
 
 この本は、第二次世界大戦中の出版会を吹き荒れた言論統制について、その最も強力な牽引者であるとされた、陸軍情報官の鈴木庫三さんの半生を通して検証していこうとする本である。
 一般に、というか私自身も、第二次世界大戦中は、新聞社も出版社も反戦的な記事は一切禁じられ、軍部に都合の良いように戦況を飾り立てたり、国威発揚を繰り返したりさせられた、それは軍による厳しい監視と検閲によって作り出されていた、と思われている。
 鈴木さんは、その軍部の情報管制の急先鋒の1人として、自由主義的な記事をことごとくつぶしていった権力者として有名らしい。しかし、この作者である佐藤卓巳さんは、そこに異を唱える。本当に鈴木さんが一方的に悪なのか、出版社や新聞社は、本当に終始一貫して戦争に反対する人道主義自由主義の人で、弾圧に耐え忍んだ被害者だったといえるのか?

 そういうことを検証するために、この本では、鈴木庫三さんの半生をたどっていく。鈴木さんは何しろ、24歳ですでに自叙伝と言いたいような日記を残している。さらに、士官学校に入る前後から、毎日日誌も書いている。(ちなみに、士官学校では毎日、日誌を書くことが義務化されていたそうな。よく軍人の人々の日記が歴史的な事実を紐解くのに調べられたりするけれど、それは、こうした士官学校での教育の賜物、ということかもしれない)そんな感じで、鈴木さんは、自分の極度の極貧生活にあえぎながら過ごした幼少時代から、小作人の家を手伝い、借金を返しつつ、必死に勉強をして陸軍への道を切り拓いたかや、どんな大志を抱き続けてきたかなどなど、克明に記された記録を豊富に残している。

 本で紹介されているのは、その内のごく一部だけれど、この鈴木青年の偏屈な位の真面目ぶりと、名誉ある軍人になりたいという燃えるような執念、強固な意志と精神力がひしひしと伝わってくる。その心中には、純化された理想主義があり、使命感に燃えている。
 とくに、砲兵工科学校や陸軍士官学校の生活を垣間見ながら、彼の心のつぶやきを聞いていると、いかに理想主義に燃え、純化された使命感に溢れているかが分かる。当時の若者は、日露戦争を子供時代に体験し、国家のために尽くすことにあまりに明白な正義と名誉と善を感じていたことも、よくわかる。
 もちろん、後世から見れば、その理想は独善的な視野の狭さの産物でもあり、軍隊式の極端に規律を重んじる形式主義的な危うさもあることが感じ取れる。それでも、そこには個人的欲望をかなぐり捨てて、公の利益のために尽くそうとする、強い克己心と献身の態度がある。そして、鈴木青年は、高い理想に燃える努力家であって、ずば抜けて勤勉、実直な人なので、思わず尊敬の念を抱かずはいられないと思うのだ。

 そこでさらに面白いのは、軍隊という組織が、そうした勤勉さや努力によって形成される「成績」を最大限、重んじる構造を持っていたということだ。たとえば、将校以上の軍部のエリートを育成する機関である陸軍士官学校での成績は、卒業後の配属や昇進にまで付きまとったというし、軍部エリートへの道は、家柄や生まれ育ちに関わらず成績重視で、誰にでも開かれていたということがある。
 努力すれば報われる、そういうある種公平な組織だったからこそ、人々は理想主義に燃え、軍人的価値観をどこまでも推し進めることになったのだろうと思う。
 なお、鈴木庫三は、裕福な豪農に生まれながらも、小作人の家に里子に出された。兄弟が、教育熱心な父親の援助を受けて医者や教師になったのに対し、庫三少年は、里親の愛情だけはたっぷり受けたものの、重すぎる家の借金を返すため、修学を断念したりしていた。極貧の苦労に耐え忍ぶほど、豊かな人々の享楽に対しても否定的になり、その軟弱さに潜在的な嫌悪感を育むことになったのではないだろうか。
 そして、軍隊が「成績」を軸とした平等主義であれば、社会的、経済的な序列が、軍部内では逆転する。その「逆転」現象は、虐げられた人々を解放と復讐に向かわせる。ルワンダの内戦がそうだったように。それが、悪名高い軍隊内のいじめにつながる、という発見もあった。

 長くなってきたので、今日はここまで。
 本自体はまだ1/4しか読み終わっておらず、本題である戦時中の言論統制の責任のありかには、全くたどり着いていない。読み終わって気が向いたらまた書きたいと思うのである。